2022年度日本スポーツ産業学会・奨励賞受賞論文 江戸のスポーツ産業に関する研究 ──近世日本のスポーツ産業史研究序説
2022年度日本スポーツ産業学会・奨励賞受賞論文
江戸のスポーツ産業に関する研究 ──近世日本のスポーツ産業史研究序説
谷釜尋徳│東洋大学法学部教授
日本の近世(江戸時代)は、スポーツが目覚ましい発達を遂げた時代です。特に19世紀の江戸では、多様なスポーツ産業が花開きます。この論文では、近世の江戸のスポーツ産業に着目し、時代の流れに応じてどのような産業が、どのような特徴をもって発展したのかを「萌芽期」「発展期」「成熟期」という3つの時代に分けて考察しました。以下は、そのダイジェスト版です。
萌芽期:江戸のスポーツ産業の胎動(17世紀)
近世は、中世に続いて武士が政権を掌握した時代です。参勤交代制度によって、全国の諸藩から集まった多くの武士を抱える江戸では、武士を相手取ったスポーツ産業が芽生えました。
江戸では17世紀より、観客から見物料を徴収する勧進相撲興行が行われるようになります。しかし、興行の主なターゲットは武士層で、まだ庶民を巻き込んだ大規模なスポーツイベントには発展していませんでした。
世の中が平和になり大きな戦乱から遠ざかると、武士は軍人としての姿を捨て去り、実質的には幕府や藩に仕える公務員になります。すると、殺法としての武術は、ルールの範囲内で安全に技を比べる競技化の道を歩みはじめました。新時代に命脈を保つ手段として、武術のスポーツ化が推し進められたのです。
江戸の三十三間堂では、弓の天下一を決めるしの競技会が開催されました。技術の優劣が数で示される通し矢は、武士にとって恰好の腕試しの場として人気を集めます。時代の波を敏感に察知し、京都の真似をして江戸にも三十三間堂を建立しようと発案したのは、浅草に住む一人の弓職人でした。江戸で通し矢が流行すれば、記録を追求する武士たちが高性能の弓矢を買い求めるようになり、弓矢が飛ぶように売れるという算段が成り立ちます。三十三間堂建立の背景には、江戸の弓職人による巧みな経営戦略が潜んでいたのです。武士にとっても、弓職人にとっても、江戸の三十三間堂は待望のスポーツ施設でした。
発展期:江戸庶民の経済的台頭とスポーツ産業の成長(18世紀)
18世紀に入ると、江戸の庶民人口が急増し、商工業を営む庶民層が経済的に大きく成長します。すると、江戸のスポーツ産業はそれまでの武士相手の形態よりも、庶民をターゲットにした商売へとシフトしていきました。武家社会の伝統から脱して、庶民が中心の都市型スポーツの世界が創造されていった時代です。
江戸では、弓を製造する弓師、蹴鞠用のボールを製造する鞠屋、の弓矢を製造する楊弓師など、スポーツ用具の製造を請け負う職人が台頭します。また、江戸市中ではスポーツ用具の販売店が軒を連ねるようになり、流通経路も整っていきました。
スポーツ空間産業が目覚ましい成長を遂げたのも、18世紀の江戸の特徴です。宝暦年間(1751〜64)には、相撲興行を運営するための「」(現在の日本相撲協会)という組織が形成され、安定した興行が行われるようになります。江戸の相撲興行では、年間2回の開催の度に、寺社の境内に相撲小屋が仮設されていました。定番の開催地となったのが、両国の回向院です。
相撲小屋の内部には、土俵を中心として周囲に2〜3階建ての重層式の桟敷席が作られ、1階のフロアには土間席が設けられました。桟敷は高級な座席で客層は一部の富裕層でしたが、すし詰め状態で観戦する土間の入場料は、中下層の一般庶民でも十分に手の届く値段に設定されています。この頃の江戸の勧進相撲は、貧富を問わず幅広い層をターゲットにしたスペクテイタースポーツになっていたのです。
江戸庶民がプレーヤーとして参加するスポーツにも産業化の波が押し寄せます。中でも、室内で小弓を用いて手軽に的当てを楽しめる楊弓は、着実に人気を獲得していきました。江戸で一番の楊弓の名手を決める競技会も開かれるようになります。江戸市中で楊弓が栄えたエリアは、浅草、日本橋、両国橋、愛宕山、神田明神、湯島天満宮、芝神明など、名のある寺社の境内や繁華街です。(楊弓の競技場)の営業は、盛り場の集客力を背景に成立していました。
成熟期:都市型スポーツ産業の全盛(19世紀)
文化文政(1804〜30)の頃には、江戸庶民の経済力は武士をはるかに上回り、現金収入を手にした庶民は経済活動や文化活動の主役になりました。こうした時代に、江戸のスポーツは最盛期を迎えます。江戸在住の中下層の一般庶民も、余暇の消費手段として大いにスポーツを楽しむ時代が訪れたのです。
江戸庶民は金銭の支払いと引き換えに、スポーツを「する」ことや「みる」ことを日常の中に取り込み、新しい時代のスポーツの在り方を築き上げていきました。しかし、この時期にスポーツが活性化した理由は、彼らの経済成長だけではありません。歴史上、稀に見る平和な時空間が、江戸庶民がスポーツに没頭できる環境を保障していたのです。
19世紀には、経済力を持つ多くの庶民層をターゲットにしたスポーツ教育産業が発展します。その一つが剣術道場です。剣術の腕前や商才に長けた剣士がたくさんの流派を形成し、弟子に剣術指南をするための道場を開くようになりました。道場経営が盛んになると、江戸庶民の中にも町の剣術道場に通う者が増加します。かつて武士の専有物だった剣術は、庶民にも身近な手習い事になったのです。
この時代には、江戸の勧進相撲は人気スポーツとして定着していました。相撲小屋では客席で飲食物が販売されるなど、今日に近いスポーツ観戦の空間が整います。その隆盛ぶりは、歌舞伎、吉原遊郭と並ぶ「江戸三大娯楽」の一つに数えられるほどでした。
同じ頃、大衆芸能を演じる大道芸人たちが江戸の町に多数出現します。芸人たちが繰り出す身体を駆使した曲芸は、見世物として江戸の人びとを虜にしました。類稀なリフティング技術を披露する、鍛え上げたアクロバットで客を魅了する、騎乗しながらパフォーマンスを演じるなど、寺社の境内や繁華街を舞台に行われたダイナミックな曲芸は、勧進相撲とともに江戸の「みるスポーツ」の裾野を形成します。
都市で進展した貨幣経済は、農村を含む日本全国に浸透し、都市型のスポーツ産業を地方農民も共有できる前提条件が整いました。この当時、地方農民が江戸を訪れ、勧進相撲をはじめ貨幣を介したスポーツを楽しんだ事例も記録に残っています。
反対に、江戸から外側に出向いて都市型のスポーツを地方に届けることも行われました。その最たるものが、江戸勧進相撲の地方巡業です。貨幣経済の浸透を追い風に、都市型スポーツ産業の波が地方にまで及んでいった様子が見て取れます。
庶民の観光旅行も大流行しました。日本中の老若男女が、伊勢神宮をはじめ各地の神社仏閣を巡る旅を楽しむようになります。交通機関が未発達な時代、移動手段は徒歩が基本です。旅人は、男性で1日平均35㎞前後、女性も負けじと30㎞弱の距離を連日のように歩いています。当時の日本人は、驚くべき健脚の持ち主でした。
旅行文化が成熟し、人びとが安心して長距離の徒歩旅行ができるようになると、剣術の世界でも藩や流派を超えた新時代のスポーツ交流が育まれます。武者修行の旅行者が急増し、全国各地の道場を訪ね歩いて他流試合に挑む剣士も続々と登場しました。
かくして、それまで交わることのなかった遠方に暮らす者同士が、スポーツを通じた異文化交流を深める時代が到来します。日本には、近世の昔にスポーツツーリズムの先駆けが存在したと見ることもできるでしょう。
以上述べてきたように、明治以降の近代スポーツの移入を待つことなく、近世日本の江戸という都市には、今日のベースとなるような多様なスポーツ産業の世界が形成されていたのです。
▶谷釜尋徳;江戸のスポーツ産業に関する研究─近世日本のスポーツ産業史研究序説─,スポーツ産業学研究Vol.31,No.3,pp.361-374,2021