低酸素環境下トレーニング・ビジネス

低酸素環境下トレーニング・ビジネス
間野義之│早稲田大学スポーツビジネス研究所所長/アシックス・スポーツコンプレックス株式会社取締役

2019年のノーベル医学生理学賞は、「細胞は低酸素状態をどう適応しているのか」を明らかにした3人の英米の研究者に与えられた。酸素が低下すると、VHL遺伝子が酸素そのものと化学反応を起こし、低酸素誘導因子(HIF)と呼ばれる酸素に敏感なタンパク質を増やして、エリスロポエチンというホルモンの産生を促進し、赤血球をつくるように促すというメカニズムだそうだ。
マラソンや競泳などの高地トレーニングに代表されるように、低酸素環境下でのトレーニングが赤血球を増やし全身持久力を高めることは経験的に知られてきた。日本では古くは1968年のメキシコシティ(標高2,200m)でのオリンピック対策として、事前キャンプを高地で行ったことが低酸素環境下でのトレーニングの始まりと言われている。 2010年のFIFAワールドカップ南アフリカ大会では、岡田武史監督が高地順化を独自に学び、事前キャンプをスイスのザースフェー(1,800m)で行った。その結果、本大会では対戦相手よりも一人当たり走行距離が500mも長く、走り勝つサッカーを実践できた。
高地トレーニングが行える米国・コロラドボルダー(1,650m)、中国・昆明(1,880m)、スイス・サンモリッツ(1,775m)、スペイン・シェラネバダ(2,320m)などは日本でも良く知られており、世界各国の代表チームの合宿でにぎわっている。
日本でも、「飛騨御嶽高原高地トレーニングエリア」(1,200~2,200m)、「蔵王坊平アスリートヴィレッジ」(1,000m)は文部科学省のナショナル・トレーニングセンター高地トレーニング強化拠点施設に指定されており、陸上競技を中心に多くのアスリートが利用し、日本国内での高地トレーニングも普及してきている。しかし、いずれも競泳用プールは設置しておらず、競泳代表チームにとっては自国内での高地の競泳用プールの整備は悲願でもあった。
このようななか、2020年東京オリンピック・パラリンピックでの日本人選手の活躍を目指して、2019年10月には長野県東御市の標高1,750mの高地トレーニング用『GMOアスリーツパーク湯の丸』が開業した。高地での50m屋内水泳プールは日本初である。他にも400mトラック、バリエーション豊かなランニングコース、トレーニングルーム、宿泊施設などがあり、東京駅からわずか2時間強の立地で高地トレーニング合宿ができるようになった。
一方で、2006年に標高約1900mの昆明での合宿中に、オリンピック候補でもあった20歳の男子競泳選手が水泳プールで練習中に死亡するという事故も起きている。低酸素環境下での高地トレーニングには、身体への負荷が大きい分、それだけ効果があるが、様々なリスクも孕んでいる。多くのトップレベルのコーチ陣が指摘するように、高地への順化スケジュール、高地でのトレーニングの頻度・強度・時間・期間の設定、その後の競技会に向けたコンディショニングやピーキングなど、個人差も含めて絶妙な匙加減がコーチには求められる。単に高地に行けばアスリートの誰もが最高のパフォーマンスにつながる訳ではない。
宮下(2016)は、低酸素環境下でのトレーニングが有効であることを認めつつも「低酸素環境下での効果的なトレーニング・プログラム(適正な運動時間、運動強度、運動頻度、継続期間)は、コーチ、選手、研究者の共同作業によってつくりあげなければならない」とし、さらに、「高所へ行くまでに1日以上かかること、旅行費用が高いこと、日本食が十分に摂れないこと、時差があることなどが課題として残った。この課題を解消するためには、日本に高所トレーニングの可能な施設を構築するしかない。(中略)1気圧で2500~3000m相当の大規模な低酸素トレーニング場が建設され、さまざまな競技種目の日本のアスリートたちが利用して、東京オリンピック・パラリンピックで好成績を残してほしい」と提言している。
つまり宮下は低圧低酸素の高地に移動することなく、常圧低酸素環境下で行えるトレーニング場を平地に建設し、トレーニング中に体調がすぐれなければ、トレーニング場から直ちに退出することで常圧常酸素環境に戻れるようにし、安全かつ効果的にトレーニング・プログラムを構築していくことが重要だとしている。
このような選手強化とは別に、すでに都市部では高地トレーニングのメリットを一般の人々にも提供できるよう、小規模な低酸素環境下トレーニング場が建設されてきている。例えば、2015年に「高地トレーニングを、日常に。日本初の高地トレーニングスタジオ™」をうたった『ハイアルチ』がオープンし、都内で3店舗を営業している。また、 2018年12月に開業した『セントラルスポーツ ジム&ラン東京丸の内(二重橋)』には「低酸素センター」が設置されている。関西では、大阪ガスグループでフィットネスクラブを多店舗展開しているOGスポーツが『高地トレーニングスタジオ 30peak(サーティーピーク)芦屋』を2019年3月に開業している。また、登山家の三浦雄一郎氏は、自身の高所順化のために2000年から都内に『ミウラドルフィンズ』を整備し、標高6000mまで酸素濃度を下げられる低酸素室を整備し、高所テストや低酸素トレーニング・プログラムを提供している。
とはいえ、いずれも低酸素のチャンバーやルームであって、自転車エルゴメーターやトレッドミルなどが置かれているに過ぎず、例えば水泳競技や格闘技や球技の実践的な練習に対応したものではない。つまり、競技力向上には、水泳プール全体やウェイトトレーニング場全体やアリーナ全体が低酸素環境となるような施設も必要となる。
2019年11月1日に、株式会社アシックスは東京都江東区豊洲の新市場の向かいに大規模な都市型低酸素環境下トレーニング施設『ASICS Sports Complex TOKYO BAY(アシックス スポーツコンプレックス 東京ベイ)』を開業した。晴海の選手村の目と鼻の先であり、交通アクセスも良い。総面積約5,000平方メートル、2階・3階の2フロアを利用し、50m水泳プール(4レーン)、25m水泳プール(3レーン)、大小2つのトレーニングルーム、スタジオなど、5つの空間では標高2,000m~4,000mの高地に相当する酸素濃度の状況下を再現している。

50m水泳プールは競技用の飛び込み台が設置され、競技大会を想定した実践的な練習ができる。また、トレーニングルームではフリーウェイトも含めて多種多様なマシン・機器が設置されており、短時間で効率的な筋力トレーニングが行える。さらにトレーニングルームの片側は50mランニングレーンもあり、スタートダッシュや短距離走の練習も可能である。スタジオでは木床でのフットワークなどの練習もできるが、畳を敷けば柔道が、卓球台を置けば卓球もできる。特に球技は気圧が低いと球が飛び過ぎることもあり、1気圧であることは試合条件を再現するうえでも重要となる。  このように、自動車産業ではF1で培われた技術が量販車に応用され、NASAの宇宙開発でもたらされた技術が我々の日常生活で商品化されるように、スポーツ産業でもトップアスリートのために開発された用具・用品、技術、指導方法などが子どもたちや高齢者のスポーツにも適用される時代が着実に進んできている。
2020年大会のレガシーのひとつはスポーツの成長産業化であるが、なかでも低酸素環境下トレーニング・ビジネスは、世界でもまだ類がないことを考えると、日本発のスポーツビジネス・イノベーションとして期待が持てる

▶︎宮下充正(2016)『トレーニングは酸素不足との戦いである― ―2020東京オリンピック・パラリンピックへむけた最新のトレーニング理論:2020東京オリンピック・パラリンピックへむけた最新のトレーニング理論』編集工房ソシエタス

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