第5回 国家分裂、理想と現実の乖離に翻弄された ドイツ・スポーツ

第5回 国家分裂、理想と現実の乖離に翻弄されたドイツ・スポーツ
早稲田ウエルネス研究所
木村俊太

国家とは何か?自明と思われがちだが、スポーツにおける国代表を見ることで、私たちが当たり前だと思っていた「国家観」は大きく揺らぐ。今回は冷戦構造によって引き裂かれた東西ドイツを取り上げる。

スポーツ界を揺るがした国家分裂

1948年以降、ドイツの国家分裂はスポーツ界にも大きな影響を与えた。特に国単位での参加が原則のオリンピックにどのように出場するかは、大きな問題だった。西ドイツは建国の年に、NOCを設立。オリンピック出場に意欲を見せた。西ドイツの意欲はIOCにとっても歓迎すべきことだったため、1950年には仮承認された。
もっとも、これは戦前のドイツのNOCを継承する組織、つまり「ドイツNOC」としての仮承認だった。IOCは東西ドイツが一つのチームとしてオリンピックに参加することを望んでいた。これは東西ドイツのスポーツ関係者らにとっても、特に異論のないことだった。この時点ではまだ、東西のスポーツ交流は比較的活発に行われており、陸上競技などは東西対抗試合まで行われていた。
1951年5月にスイスのローザンヌで開かれたIOC理事会において、翌年のヘルシンキ大会へは、東西統一チームを派遣することで合意し、調印された。ところが、である。代表団が帰国すると、東ドイツ政府はこれを代表団の越権行為だとして認めず、一度調印した協定の破棄を表明した。
結局、IOCは西ドイツのNOCを「ドイツNOC」として(戦前のドイツNOCを継承する組織として)承認し、1952年のオスロ大会、ヘルシンキ大会は西ドイツの選手たちがドイツNOC代表としてオリンピックに参加することとなった。

現実と理想の狭間で

東ドイツは自国のNOC承認を求め続けたが、IOCとしては「国名にドイツを冠するNOCを2つ認めるわけにはいかない」という立場を堅持した。しかし、冷戦によるドイツの分断はより一層、激しくなっていく。
1953年3月、ソ連の最高指導者スターリンが死去すると、それまで不満をくすぶらせていた東側諸国の労働者たちが動き出す。同年6月、東ベルリンでの建築作業員たちのストライキをきっかけに大きな暴動へと発展したが、駐留していたソ連軍によってすぐに鎮圧されてしまった(東ベルリン暴動)。これによって、東西の対立は決定的となっていく。
1955年5月、西ドイツは完全なる主権回復を宣言してNATOに加盟。すると、その数日後には、東側諸国によるワルシャワ条約が締結された。当然、東ドイツもこのワルシャワ条約に署名している。そして、ソ連は東ドイツを主権国家として承認し、東ドイツは独立を宣言した。
こうしてドイツ統一は、夢のまた夢という状態になってしまった。当事国である西ドイツ、東ドイツともに「ドイツ統一」の理想は掲げつつも、お互い「自分たちこそが、戦前のドイツの正統なる後継国だ」という主張は譲れなかった。

2つのNOC、1つの代表チーム

この間も、東ドイツは自国のNOC承認をIOCに求め続けた。「一つのドイツ」を原則とするIOCも、冷戦構造の固まりによって世界が完全に二分されている現実を前にしては、東ドイツという国を無視し続けることはできなくなっていた。
ここでIOCは奇策を提案してきた。「東ドイツのNOCを承認してもいいが、1951年のローザンヌでの協定は有効なので、翌1956年のコルティナダンペッツォ大会には、東西ドイツ統一チームで参加せよ」という提案である。東ドイツは渋々ながらこの提案を受け入れ、東ドイツNOCは仮承認された。
だが、チーム編成は簡単でなかった。この頃は両国の分断がさらに進み、スポーツ交流も以前ほど活発には行えなくなっていた。代表選手、代表チームを選出するためには、まず別々に予選を行い、両国間での代表決定戦を行わなければならなかった。最終的に選ばれた選手は、西ドイツ出身が58人、東ドイツ出身が18人だった。
さらには、国歌の問題もあった(国旗はこの時点では同じものだった)。一度は、優勝者が西ドイツ出身者なら西ドイツ国歌、東ドイツ出身者なら東ドイツ国歌を演奏すると決めたが、最終的にはベートーヴェンの「交響曲第9番(いわゆる「第9」)」第4楽章の「歓喜の歌」を流すこととした。
当時のIOC会長アベリー・ブランデージは、ドイツ統一チームの結成について「我々は政治がこれまで成し遂げられなかったことを、スポーツの分野で成し遂げた」「これはスポーツによる、政治に対する重要な勝利だ」と自画自賛した。現実のドイツ統一チームはどちらかの国の代表が集められて一つの選手団として戦うという、ブランデージ会長が思い描いた理想型とは大きくかけ離れたものだったが、この形での参加はまがりなりにも、1964年の東京大会まで、夏季3大会、冬季3大会で行われた。

募る東側への不信感

ドイツが統一チームとしてオリンピックに出場した6大会の間、東西の冷戦はその深刻度を増していった。1956年のメルボルン大会の直前には、ハンガリー動乱が起こった。ハンガリー社会主義労働者党の一党独裁に反対する市民が全国的に蜂起した。ハンガリー政府は、ソ連に鎮圧を要請し、ハンガリー市民数千人が犠牲となり、数多くの難民を生み出した。
西ドイツは、自由を求める市民を武力によって残虐に弾圧した東側のやり方に嫌悪感を抱き、その嫌悪感はハンガリー動乱とは直接的には関係ない東ドイツにも向かった。東ドイツ出身選手たちと同じチームとして戦うのはいかがなものかという意見が、西ドイツの選手やNOCから出るようになり、西ドイツの選手と東ドイツの選手は移動も宿泊も別々で、ただユニフォームが同じというだけの集団になった。
それでも、ドイツ統一チームが1964年の東京大会まで続いたのは、「政治に対するスポーツの勝利」をIOCが手放したくなかったからである。しかし、現実の東西対立はますます悪化していく。1961年にはベルリンの壁が築かれ、東西ドイツの対立は決定的となった。

スポーツ界での東西断絶

国家の決定的対立は、スポーツ界にも当然のように持ち込まれた。ベルリンの壁構築直前の1960年、西ドイツのアデナウアー首相は「ドイツ分裂という事実が(ドイツ統一チームによって)覆い隠されるよりも、(東西ドイツが別々のチームとして参加するのを見て)世界がこのことを何度も思い出す方がよい」と述べ、ドイツ統一チームに対して公然と反対の意思を示した。そして、ベルリンの壁が完成すると、西ドイツ政府は「東西のスポーツ交流は今後、一切、行わない」と東ドイツのスポーツ界との断絶を宣言した。
一方の東ドイツ側も、もはや1950年代初頭のような「とにかく東ドイツの選手たちがオリンピックに出場できるようにすることが最優先」という時代ではなく、「東ドイツは西ドイツと並び立つ独立国家だ」と主張し、それを国際的に認めさせることに力を入れるようになっていた。さらに、自国のスポーツ関係者が、ドイツ統一チーム結成のために西側関係者と接触すること自体、「西側の悪い影響を受けかねない」として難色を示していた。
もはや、統一ドイツチームは、現実を覆い隠すための偽物のベールであることは誰の目にも明らかだった。IOCは東西両ドイツ側に「各選手は東西どちらかのNOCを選んで出場するが、同じ旗、同じユニフォームで戦う」といった調停案を示すが、こうした中途半端な提案は東西ドイツ双方にとって受け入れがたいものだった。

偽物のベール、本物のベール

IOCが現実を直視し、ドイツ統一チームという偽物のベールをはがし、世界にもその現実をはっきりと見せる。解決策はそれしかなかった。1965年のIOC総会において、東ドイツNOCは完全なNOCとして認められた。ただし、過渡的措置として1968年のグルノーブル大会、メキシコシティ大会は、前述のようなIOCの調停案(別チームながら、同じ旗、同じ歌、同じエンブレムで戦う)が採用された。そして、皮肉なことに(あるいは東ドイツの思惑どおり)、1972年に西ドイツで開催されたミュンヘン大会において、東ドイツは初めて自国の旗、自国の国歌、自国のエンブレムのもとで戦い、開催国・西ドイツの13個を凌ぐ、20個の金メダルを獲得。総メダル数でも、ソ連、アメリカに次いで世界3位の66個を獲得し、その存在感を世界中に示すこととなった。ちなみに、この年の年末に東西ドイツは国交を樹立。翌年、両国ともに国連加盟を果たしている。ドイツが再び、そして本当の意味で統一チームとなるのは、ベルリンの壁の崩壊(1989年)を経て、東西ドイツの統一が現実のものとなってからであり、オリンピックとしては、1992年のアルベールビル大会からだった。もはやあえて覆い隠すようなものは何もなく、ドイツチームは本物のベールをまとって、国際舞台へと帰ってきたのだった。

参考文献
IOC(1994)「国際オリンピック委員会の百年 第2巻」(穂積八洲雄訳)(NPO 法人日本オリンピック・アカデミー公式サイトデジタル・ライブラリー掲載 https://olympic-academy.jp/joa_digitallibrary/joa_digitalmaterial/ioc100years/ 2026年5月29日閲覧)寳學淳郎(2015)「ソビエト占領地区/東ドイツにおけるスポーツ関係規定の変遷に関する研究」金沢大学大学院人間社会環境研究科 村上直久(2024)『国際情勢でたどるオリンピック 冷戦、テロ、ナショナリズム』平凡社新書

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