競技生活で得たものと 今後の活動ビジョン

競技生活で得たものと今後の活動ビジョン
株式会社マルハン/一般社団法人SPICE.F代表理事
アルペンスキー男子シッティング
狩野亮

アルペンスキー座位(シッティング)の男子日本代表として2006年のトリノ大会から2022年北京大会まで5度のパラリンピック出場を果たし、うち3つの金メダルを獲得した狩野亮。 2022年7月に日本代表を引退し、現在はパラリンピアンとしての経験と知見を活かして様々な活動に取り組んでいる。今回、競技生活を振り返ってもらうとともに、今後のビジョンについて語っていただいた。

障がいを持ち気づいたこと

私たちパラリンピアンは4つの価値、
【勇気】
【強い意志】
【インスピレーション】
【公平性】
を表現していくことを目指しています。

公平性に関しては、障がいのレベルや係数に応じたハンデをつけて戦うことを意味し、この4つがパラリンピックの概念になります。
幼少期の私は夏に野球を、冬にスキーに励む活発な少年でした。そうして小学3年生のとき、横断歩道を渡る際に車と衝突する交通事故に遭いまして脊椎損傷を負いました。1週間以上は意識不明の状態にありまして、目を覚ましたときには足が動きませんでした。

両親たちもショックで悩んだ時期はあったそうですが、私がずっと言われてきたのは「障がいを言い訳にして生きていくんじゃない」という言葉です。障がいを負いましたが、「自分には何ができるのか、この先どうやって生きていくのか」を幼少期から常に考えていたと記憶があります。

そうして私が障がいを乗り越える大きなきっかけとなったのがスポーツでした。最初に挑戦したのはアーチェリーです。これはリハビリの先生が、座りながらでもできる競技ということで紹介してくれたものです。ほかにも陸上競技やバスケットボールにも取り組み、やがて大学時代にスキー1本に絞ることにしました。

全国大会に初出場した際、参加者の皆さんがとにかく明るくて、自分の障がいを笑い飛ばすような方々ばかりだったんです。「どんな人生を過ごしていくことが大事か」「障がいを負った後の人生の方が幸せ」という声が聞かれました。私や両親もそこに気づきを得て、「どんな形で生きていくかが大切なのだ」と家族内で共有する機会になったと思います。

パラリンピアンとして過ごした競技人生

初めてパラリンピックに出場したのは20歳、2006年トリノ大会でした。ですが当時はまったく結果も出ない、努力もしていないような選手でした。大回転は記録なし、回転は27位という結果に終わってしまいました。

しかしこの大会で、私は2人の人物から大きな刺激を受けることになりました。一人は伴一彦コーチです。伴コーチは私の可能性に懸け、「若さと勢いを持った狩野をパラリンピックに出場させなければ、日本は絶対に後悔する」とパラリンピックに引き込んでくれました。

そして、もう一人はトリノ大会の大回転で銀メダルを獲得した森井大輝選手です。実際にメダルを手にして森井選手自身も涙を流し、周りのスタッフも大喜びし、観客全員が祝福している光景を目にして、「この世界で勝つこと」を肌で感じることができました。「いつかはこのような世界でメダルを獲れるようになりたい」という強い気持ちが芽生えた瞬間でした。

「多くの人たちの思いや行動を裏切ってしまった」という気持ちになり、同時に「4年後に必ずや成長した姿で、この舞台に帰ってくるんだ」と決意して、帰国することとなりました。

そこからは競技への取り組み方が一変しました。まずは栄養士やトレーナーとメニューを組んで、冬の時期をいかにして迎えるかというプランを立てることから始め、四六時中、スキーを生活の中心におき過ごしていました。

2010年バンクーバーパラリンピックまでの4年間はとにかく濃密で、夏場は自分の体を自由にコントロールするためのトレーニングを施し、ニュージーランドにて合宿も行いました。それと並行して、心の作り方も確立でき、バンクーバー大会では表彰台の真ん中に立つことができました。

この金メダルが私の人生を一変させました。メディア出演や首相官邸への訪問、様々なイベントに出させていただく機会が多くありました。ですが同時に、世界一のプライドや達成感、満足感は私を苦しめました。「まだまだ自分は世界一の選手ではない」「この先が大切なんだ」と自分に言い聞かせても、これまで経験してこなかった世界に引っ張り出されたことで、どうしても気持ちが浮ついてします。どれだけ厳しいトレーニングをしても、どこか気持ちが乗らず、がむしゃらに世界を目指していたときとは異なる自分がいました。

そこから転じたきっかけは次の2014年ソチパラリンピックの前に設けられたプレ大会です。そのときのレースが散々で、最後はもう恐怖心と戦いながら滑るという具合でした。「このままではまた多くの方々を裏切ってしまう」「情けない姿を見せてしまう」と強い衝撃を受け、なんとかもう一度、世界と戦える状態を作ることができました。

結果、ソチ大会では念願の滑降にて金メダルを獲得。たくさんの方々に報告し、喜んでくれる人がいることのありがたみを改めて感じる機会になりました。前回のバンクーバー大会と異なったのは、その後の過ごし方です。「次の3連覇を見据えて動くこと」を肝に銘じました。

その後の4年間は、しっかりと自分のやるべきことを進め、経験値やパフォーマンス、さらには用具の開発などベストなコンディションで2018年の平昌大会を迎えましたが、結果はメダルに届かず。この結果を受けて現役引退が頭をよぎったのは事実です。そんななか、大学進学をきっかけに離れていた地元の北海道に戻り、そこでもう一度強くなるための環境を整えることから再スタートしました。名寄市や札幌市を拠点にトレーニングを再開し、4年後の北京パラリンピックを目指す決断をしました。結果として2022年の北京大会でメダルを獲ることはできませんでしたが、やりきったことに悔いはありませんでしたし、最後に一緒に戦った日本チームが皆、とても良い顔をしており、4年に1度の舞台をともに戦い抜く仲間の存在は特別だなと実感しました。

パラリンピックを5度経験し学んだことは「すべては気持ち一つで、自分の未来は切り開ける」ということです。初めて出場して、がむしゃらのスイッチが入ってからの4年間はとても成長しましたし、その後、満足して成長が止まることもありました。苦しいときはなかなか奮起するのが大変ですが、自分の中にある様々なものがきっかけとなって、さらにいろんな世界が開けたのだと思います。

競技人生を通して、「努力・挑戦することが成功を生むとは限らない。けれども、その先に必ず自分自身は成長している」と知ることができました。金メダルという成功を手にしたときもあれば、そうはいかなかったときもあります。ですが、どちらも私にとっては大きな成長を与えてくれた経験でした。

現役引退後の活動と今後のビジョンとは

2022年の北京パラリンピックをもって現役から一線を引く決断をしました。以降、札幌市のオリンピックミュージアムでのオリパラ教室や、幼稚園児とのインクルーシブ教室(健常者と障がい者など様々な違いやそれぞれの多様性をともに学ぶ教育)、大学生を対象にした講話のほか、雪上で子供達と触れ合う、いわば本業といえる活動に取り組んできました。

一方で、このままパラリンピアンという枠組みの中で活動して、この先発展することができるのか、新しい道を切り開くことができるのかという思いをずっと抱いていました。私たちが経験してきたことをもっと多くの方々に知ってもらうことはできないか? その思いから3ヵ月間オランダに渡り、現地の活動を学びました。

それがオランダの「WHEELCHAIR SKILLS TEAM」という活動です。障がいを負った子供達に、アクティブに生きていこう、と啓蒙する団体です。そこで世の中の障がい者像を変えていくことを学びました。団体の代表から日本でも展開してほしいと託していただき、私自身もこうした活動は今後広げていく必要があると感じます。

活動の展開イメージとしては、“対障がい者”だけでは幅が狭いと思っています。多方面に対してアプローチすることでどのような化学反応が起きていくかを注視していきたいです。「WHEELCHAIR SKILLS TEAM」と同等の活動を展開していくには費用や用具が必要で、事業開始に向けて準備を進めています。

私の所属会社である株式会社マルハンが手掛ける「ヲトナ基地」という企画があります。これは「自分が好きと感じるものを堂々と好きだ」と言えるように応援するアクションです。その一環として、会社からは、障がい者の活動や共生社会の実現といった枠組みをさらに超えた取り組みをしてほしい、と要望をいただいております。それには
(1)知る、知ってもらうこと
(2)ともに生きる
(3)それが当たり前になる

の三段階のステップがあり、こうして成熟した共生社会が実現できるのだと考えています。おそらく今の日本はすでに(1)の段階は過ぎていて、(2)に向かって動いているのではないかと感じています。

活動のイメージ

決まったゴールのない世界への挑戦

競技の第一線から退いて、いざ外の世界に出ると「ほんとうに自分たちの小さくて狭い世界の中で、ただがむしゃらに自分の命を削って戦っていたんだ」ということに気がつきました。もちろん、そこで世界のトップを目指して戦ったからこそでしか得られない経験もありましたし、多くのことを学べました。それらに対する誇りや感謝は今も強く抱いています。ですが、これからは決まったゴールのない複雑な世界に挑戦していくことになります。もう一度、情熱を注げる事業を展開していきたいと願っています。

Q. 狩野さん自身が考える、障がい者とともに生きることが当たり前になった社会とはどのようなイメージでしょうか?

A. 例えば、街中で私が車椅子に乗っていて、子ども達が「あ!車椅子の人だ!」と言って寄ってきてくれるとします。私自身は別に構わないし、むしろ「このタイヤかっこいいだろう?」なんて話もしたいところです。ですが、その子の親御さんが「失礼なことを言っちゃダメでしょ」と注意する。となると、子供と親御さんのどちらが僕に獲って失礼かといえば、親御さんなわけです。どこまでが失礼のないラインか、フランクな接し方として許容されるか、は正直わからない部分でもありますが、障がい者やマイノリティを持っている方々は、そのことを自分自身が当たり前のものとして世の中に出ていけば、それを当たり前として受け入れられる、そんな社会が近いと思います。

もう一つ、私がいた世界での事例を挙げますと、パラスポーツ界にもまったく違う業界から新しくスタッフが加わるケースがあるんですね。すると、最初は車椅子に対してどう接して、どうサポートしていいかを図りかねている様子が見られます。ですが、それらがその人の中の当たり前のものになった際に、仮に私たちが段差で車椅子のタイヤを引っ掛けてこけたとしても、一緒になってみんなで笑い合うことができていました。そうなったときに、それはその人のなかでの自分自身の人生観が変わったという声を聞きました。

障がい者やマイノリティ、またそれとは別でも、自分とは違うと感じる人に対して距離を置きたいと感じるのは自然なことで、それはそれでいいと思います。障がいを持った人だから特別に接しよう、ではなく、一人の人間として一緒に絡んで仲良くなる、ぐらいの感覚で過ごす。そんな輪が私の目指す、当たり前の社会に近いのかなとは感じますが、とはいえ非常に難しいもので、「これがゴールだ」とは定まらないものと言えますね。

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