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昨年末から岡山のスポーツ界に注目が集まっている。年末年始に全日本フィギュア(アイスダンス)・全国高校男子駅伝・男子の全国高校サッカー選手権で立て続けに県出身者や県代表が優勝する中、特に注目を集めたのが女子陸上だ。1月、全国都道府県対抗女子駅伝で県代表として3区を走った15歳のドルーリー朱瑛里選手が驚異の17人抜きで区間新を記録。さらに同日、アメリカで行われたヒューストン・マラソンでは総社市出身の新谷仁美選手が優勝。あと12秒の差で日本歴代2位の記録をマークした。岡山の女子陸上といえば1992年バルセロナ五輪で銀メダル・1996年アトランタ五輪で銅メダルを獲得した岡山市出身の有森裕子や、実業団の強豪・天満屋が有名である。なぜ、この地域は次々と実力者を輩出するのか。ルーツには、日本女子初の五輪メダリスト・人見絹枝がいる。

岡山県総合グラウンドに設置された人見銅像。ここをスタート・ゴール地点とする「山陽女子ロードレース」の10kmの部は人見絹枝杯とも呼ばれる。

人見は、1907年(明治40年)に現在の岡山市南区に生まれた。岡山高等女学校在学中に走幅跳の日本新、二階堂体操塾(現:日本女子体育大学)在学中に三段跳の世界新を記録するなど、複数の陸上種目を経験し好成績を挙げた彼女は、1928年にアムステルダムで行われた五輪に日本女子選手として初出場し、初のメダリスト(800mで銀)となった。その後、競技の傍ら後進の育成にも力を注ぎ日本女子スポーツの発展に尽力したが、メダル獲得の日からちょうど3年後の8月1日に、24歳の若さで肺炎でこの世を去った。

人見は女子スポーツへの偏見が根強い時代を生きた。「人前で太ももをさらすな」「日本婦人の個性を破壊している」などという文面の書簡が、彼女の元にはしばしば送られてきていた。それでも全国を回り女子スポーツの重要性を説き、女子選手の海外遠征のための費用捻出に奔走するなど、後進のために命を燃やした。彼女が残した有名な言葉がある。「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける。しかし私の後から生まれてくる若い女子選手や、日本女子競技会には指一つ触れさせない」。

同郷の有森裕子が人見以来の五輪陸上女子メダリストとなったのは、人見の死から61年が経った1992年8月1日のことだった。彼女は人見の写真を常に持ち歩き競技に臨む心の支えとしていたという。有森のメダル獲得と同年には陸上熱の高まりを受け天満屋女子陸上部が設立され、五輪など国際大会で活躍する女子選手を輩出し続けている。今年大注目の新谷やドルーリーも、受け継がれたバトンを手に世界を巻き込む「岡山旋風」の中心となっていくだろう。強い決意のもと女子スポーツ界を切り開いていった人見のあとには、彼女が願った通り輝く女子選手たちが続いている。

シティライトスタジアム内の「遺跡&スポーツミュージアム」では、人見と有森に関する展示を見学できる。

多数の優秀な選手たちを輩出し続ける岡山県。写真は岡山城。

▶文・写真│伊勢采萌子

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