スポーツ法の新潮流 「アンチ・ドーピングにおけるインテグリティの保護」

スポーツ法の新潮流──③
「アンチ・ドーピングにおけるインテグリティの保護」
松本泰介│早稲田大学スポーツ科学学術院准教授

2017年8月5日、世界陸上ロンドン大会男子100m決勝で、アメリカ合衆国のジャスティン・ガトリン選手が、9秒92で優勝しました。しかしながら、優勝したガトリン選手を待ち受けていたのは会場からの大きな称賛ではなく、それを上回るブーイングでした。理由は、ガトリン選手が2001年と2006 年にアンチ・ドーピング規則違反で2度の出場停止処分を受けていることにあります。
この件に関しては、世界陸上競技連盟(IAAF)会長のセバスチャン・コー氏が「2回の出場停止を科されている選手が最高の栄誉を手にし、大会を去ることを祝福する気にはなれない」とメディアに発言するなど大きな話題になっており、今後のアンチ・ドーピング政策がどうなるのか、動向が注目されています。
ただ、この連載にてお伝えしてきたとおり、ドーピングの問題は、現代スポーツの本質的価値に関わる問題であり、この観点から今後の政策を議論すべきでしょう。今回は、こちらの問題に関して整理を行いたいと思います。

WADA規程における
アンチ・ドーピング規則違反の概要

この点、現在のアンチ・トーピング規則がどのようになっているのか、オリンピックスポーツなどで広く採用されている世界アンチ・ドーピング規程(いわゆるWADA規程)を例に説明します*1。

アンチ・ドーピング規則違反とは

現在のWADA規程*3は、①「ドーピングのないスポーツに参加するという競技者の基本的権利を保護し、もって世界中の競技者の健康、公平及び平等を促進する。」、
②「ドーピングの検出、抑止及び予防に関して、国際及び国内レベルにおいて、調和と協調がとれた、実効性のあるアンチ・ドーピング・プログラムを確保する。」ことを目的として定められており、アンチ・ドーピング規則違反として、WADA規程第2条に、表1の10個を定めています。
特にポピュラーなのは、「①競技者の検体に、禁止物質又はその代謝物若しくはマーカーが存在すること」ですので、こちらを前提にお話を進めますと、アンチ・ドーピング機関は、この①を証明すれば、アンチ・ドーピング規則違反を問えることとなっています(WADA規程第3.1条)。WADA 規程に基づく制裁は、国家が刑罰をもって行う制裁とは異なり、民間団体である競技団体が行う懲戒処分です。ですので、刑罰権の行使において適用される無罪推定の原則は適用されないため、このような規則として定められています。そして、ドーピング検査対象者が反証する機会として公正な聴聞会の実施が義務付けられています(WADA規程第8条)。

個人に対する制裁措置とは

次に、アンチ・ドーピング規則違反が発生すると、競技会における個人の成績の自動的失効(WA DA規程第9 条)が行われますが、個人に対する制裁措置としては、アンチ・ドーピング規則違反が発生した競技大会における成績の失効(WADA規程第10.1条)、検体の採取又はアンチ・ドーピング規則違反後の競技会における成績の失効
(WADA規程第10.8条)に関する規定が適用されるほか、原則的な資格停止期間は、表2のとおりとなっています。

資格停止期間の軽減、加重事由とは

この上で、WADA規程には、資格停止期間の軽減方法として、①過誤又は過失がない場合における資格停止期間の取消し(WADA規程第10.4条)、②「重大な過誤又は過失がないこと」に基づく資格停止期間の短縮(WADA規程第10.5条)、③資格停止期間の取消し、短縮若しくは猶予又は過誤以外を理由とするその他の措置(WADA規程第10.6条)が定められています。
特に、②「重大な過誤又は過失がないこと」に基づく資格停止期間の短縮(WADA規程第10.5条)については、「重大な過誤又は過失がないこと」が立証できることを条件として、表3のとおり制裁措置の軽減が定められています。また、③資格停止期間の取消し、短縮若しくは猶予又は 過誤以外を理由とするその他の措置(WADA規程第10.6 条)には、アンチ・ドーピング規則違反を発見又は証明する際の実質的な支援に基づく資格停止期間の猶予(WADA 規程第10.6.1条)、その他の証拠がない場合におけるアンチ・ドーピング規則違反の自認に基づく資格停止期間の短縮(WADA規程第10.6.2条)なども定められていますが、これらはいわゆる司法取引類似の制度となっています。

一方で、複数回の違反(WADA規程第10.7条)については、2回目については、(a)6か月間、(b) 1 回目の違反につき、課された資格 停止期間の 2 分の 1、(c)初回の違反と取り扱った上で適用可能な資格停止期間の 2 倍のうち、最も長い期間となります(WADA規程第10.7.1条)。そして、3回目については、原則として、常に永久の資格停止となります
(WADA規程第10.7.2条)。

スポーツ・インテグリティを守るためのアンチ・ドーピング規則とは
ガトリン選手は様々な非難を受けていますが、2001年当時はWADA規程が制定される以前のアンチ・ドーピング規則が適用され、2006年当時は、2003年に施行された初代のWADA規程*3に基づき、アメリカ合衆国アンチ・ドーピング機構(USADA)との間で司法取引類似の制度も実施されたことで、8年間の資格停止処分を4年に短縮されています。ガトリン選手は、このようなアンチ・ドーピング規則に基づくルールに従い、今回の世界陸上の出場資格が認められ出場している以上、過去の行為を理由に彼個人を非難するのは合理的とはいえないでしょう。
もっとも、WADA規程を含むアンチ・ドーピング政策が
現在のままでいいのか、という議論に関しては、今後さらなる検討が必要だと考えられます。
ガトリン選手だけでなく、テニスのマリア・シャラポア選手や競泳の孫楊選手などアンチ・ドーピング規則違反となった選手については、特に同じ競技者から批判の声が上がっています。このような中で、前述のWADA規程の、「ドーピングのないスポーツに参加するという競技者の基本的権利を保護し、もって世界中の競技者の健康、公平及び平等を促進する。」という目的は達成されているといえるでしょうか。また、本年8月30日には、2011年の世界陸上参加選手のうち、30%以上の選手が、自身のキャリアでアンチ・ドーピング規則違反を犯していた、との調査結果が発表されています。WADA規程は、2009年、2015年と改定されてきていますが、従前の規定を前提として改定されています。ただ、これだけ多くの選手がドーピング経験を告白している現実を前にして、今後のアンチ・ドーピング政策をどうすべきか、これまでのWADA規程の延長線上では難しいとも考えられます。 次回は、今後のアンチ・ドーピング政策を考える上で、アンチ・ドーピング規則における難易点について解説したいと思います。

▶*1アメリカの4大プロスポーツや、格闘技などは別のアンチ・ドーピング規則を採用しています。
▶*2 The World Anti-Doping Code http://www.playtruejapan.org/code/
▶*3 World Anti- Doping Code version 3.0 http://www. playtruejapan.org/downloads/code/WADA_CODE_ver3_JP.pdf

 

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