スポーツ産業を再定義するAI導入とその多面的影響、 および日本市場が乗り越えるべき戦略的障壁(後編) 〜スマートスタジアム、レプリカ選手の具現化と日本市場が直面する倫理的課題〜
スポーツ産業を再定義するAI導入とその多面的影響、および日本市場が乗り越えるべき戦略的障壁(後編)
〜スマートスタジアム、レプリカ選手の具現化と日本市場が直面する倫理的課題〜
ニールセンスポーツジャパン代表取締役 兼 グレースノート取締役
松永裕司
国内のスポーツ界を見渡しても、すでに具体的な変革の兆しは現れている。プロ野球の横浜DNAベイスターズは、公式アプリを通じたAIによる全打席のリアルタイム独自解説や、投手の投球精度を厳密に測定しコマンド(制球力)の向上につなげるなど、ファンサービスとチーム強化においてAI導入を進めており、IT企業を親会社に持つ球団ならではの先駆的な好例となっている。前編では、AIがいかにしてスポーツを民主化するかを論じた。後編では、こうした事例を踏まえ、より具体的なビジネス領域の拡張と、日本が直面する倫理的課題に焦点を当てる。注目すべきは、主要5分野の一つ「エンゲージメント」、特にスマートスタジアムの進化について深掘りする。
日本初「真のスマートスタジアム」実現へ
ファン体験は、これまでの一方的な「中継型」から、個人の嗜好に最適化された「対話型」へと移行する。考えうるのは、今後スタジアムそのものがAIと連動した巨大な没入型デバイスへと進化する方向性だろう。
2026年1月から「MUFGスタジアム」へと呼称が変更となった国立競技場は、ひとつの試金石だろう。2025年10月にアップグレードされたNTT版大規模言語モデルAI「tsuzumi 2」をはじめとする最先端技術の実装が期待されるからだ。NTTは世界三大レースのひとつ「インディ500」が行われるインディアナポリス・モータースピードウェイにおいて、スマート・サーキットを実現。観客の混雑状況、熱気、個人の購買行動をAIが解析し、空き駐車場を案内するなどアプリによるサービス提供に反映させている。
NTTドコモが、こうした海外事例を「MUFGスタジアム」に実装させるに、そうハードルは高くない。tsuzumi 2が観客のスマホやスタジアムのディスプレイを通じ、混雑状況、トイレや売店の待ち時間、最適な歩行ルートなどをリアルタイムに回答。施設内の監視カメラ映像からは、スタジアムの混雑、危険物の持ち込み、不審な行動を検知し、迅速にスタッフへ通知。試合映像と連動させ、試合の状況や選手のデータを高度に解析、パーソナライズされた実況・解説をリアルタイムに生成…などの実現が予想される。
今となっては誰もが利用する生成AIながら、国際オリンピック委員会(IOC)は今年のミラノ・コルティナ五輪において「Olympic AI Agenda」の推進のもと、公式プラットフォームに特化した対話型アシスタントを本格稼働させた。Olympics.comの膨大なコンテンツに特化し学習させたソリューションは、本大会期間中、初めてリアルタイムの結果情報や競技状況を統合し提供する能力を持つに至った。着目すべきは、情報ソースがインターネット上のランダムな拾い物ではなく、検証された正確で偏りのない公式情報という点。AIが嘘をつくハルシネーションを防いだ活用方法が“最先端”を謳うスタジアムに導入されるか、興味深い。日本初の「真のスマートスタジアム」が実現すれば、それは単なる観戦施設を超え、都市機能の一部として新たな収益を生み出すプラットフォームへと変貌するだろう。
「レプリカ選手」と新たな収益源
引退後のデジタル資産も
AIはスカウティングを進化させるだけでなく、選手そのものの在り方を変える。それが「レプリカ選手(AIレプリカ)」の概念。G42のレポートではこれを「ゴースト・アスリート」と呼んでいるが、日本では「ゴーストがつぶやくのよ」と言われると別の物語を想起させてしまいそうなので「レプリカ選手」とする。
選手自身の外見、声、思考パターンをディープラーニングさせたデジタルツインを利用、本人が試合中でも私生活を満喫していても、レプリカが世界中のファンと交流、広報活動を行い、スポンサー商品を紹介する。選手はパフォーマンスに集中しつつ、肖像権ビジネスを飛躍的に拡大できる。
PwCは、こうした新たなメディア資産の台頭によりスポンサーシップ市場が2030年までに約24兆円を超えると予測。引退後のセカンドキャリアにおいても、自身の「デジタル遺産」が収益を生み続けるという新たな経済圏の創出も可能だろう。
ジェンダーギャップの解消とサステナビリティ
「健康・パフォーマンス」の分野において、AIは「チームヘルス」という概念で個人のコンディションを可視化し、怪我の予防に貢献する。期待すべきは、女性選手に特化したAIの可能性だ。
従来、スポーツ医科学の研究データは男性を中心としており、トレーニング理論や怪我の予防策も男性基準のバイアスが存在した。AIはこの歴史的な不均衡を是正する。女性特有のホルモンサイクル、骨格、筋肉のつき方をAIが詳細に分析し、その日の生理周期に合わせた最適なトレーニング強度や栄養摂取、リカバリー方法を提案する。例えば、前十字靭帯損傷のリスクは女性選手の方が高いとされるが、AIによる動作解析とホルモンバランスの相関分析により、リスクの高い時期を特定し、予防プログラムを組むことさえ可能だ。
日本市場では「女性スポーツ×AI」の分野は依然として発展途上。世界レベルの知見を取り入れ、この未開拓市場を活性化させることは、産業としての成長余地であり、日本の女子スポーツの競技力向上、ひいては女性の健康増進への必須条件だろう。
また、デザインの領域でもAIは変革をもたらす。AIによる形成デザインは、強度を保ちながら極限まで材料を減らした用具開発を可能にし、環境負荷を低減する。フットウェア界に革新をもたらしたOn社の「LightSpray」技術のように、AIとロボットアームがシューズを成形するプロセスは、炭素排出を激減させる。
興味深いのが「共生デザイン」。AIを搭載した義肢が、使用者の動きの癖を学習、また逆に義肢がユーザーに「理想的な動き」をフィードバックする。パラリンピアンのみならず、高齢者の歩行支援など、人間と機械が互いに学習し合う未来は、スポーツの枠を超えた社会的価値を創出するだろう。
倫理的課題・ガバナンスと日本への提言
AI導入には、避けて通れない倫理的課題が存在する。
第一に、データ所有権の問題。選手の心拍数、睡眠、移動距離といったプライベートな生体データは誰のものか。クラブのものか、リーグのものか、それとも選手本人のものか。ブラジルで試行されているデジタルウォレットのように、選手自身が提供したデータから公正な対価を得られるインフラを、日本でも構築すべきだ。
第二にアルゴリズムのバイアス。AIの学習データに人種、性別、あるいは特定のプレースタイルに対する偏りがあれば、AIのスカウティングや評価は不当な差別を生む。公平性を担保する透明なプロセスと、定期的な監査が求められる。
第三に「人間中心」の原則だ。AIは過去のデータから解を導き出すが、選手の精神状態や人間関係という「数値化できない人生の複雑さ」をすべて理解することはできない。最終的な判断を下すのは、常に血の通った人間であるべきという原則を、我々は決して忘れてはならない。
G42が提唱するような倫理フレームワークの構築は不可欠である。特にガバナンス改革が叫ばれて久しい日本スポーツ界において、AI倫理規定の整備は後手に回りがちだ。スポーツ庁を筆頭に、競技団体、民間企業が一体となってガイドライン策定に動くことが、技術への信頼、ひいては産業の健全な発展の前提となる。ルールなきテクノロジーの暴走は、ファンと選手の信頼を一瞬で失墜させるリスクを孕んでいる。
「新奇性探究心」に欠ける日本人の壁
スポーツにおけるAI活用は、単なる技術論ではない。それは組織論であり、文化論であり、ビジネスの根幹を揺るがす地政学的な変革でさえある。
日本のスポーツ産業が国際的な競争力を維持し、2034年の巨大市場で生き残るために必要なものは何か。第一に目先の「便利なツール」としてAIを導入するのではなく、自組織のビジョンにAIをどう組み込むかという長期的戦略だ。他国の模倣や場当たり的な導入ではなく、自組織の課題解決に直結する戦略が求められる。第二に日本スポーツ界に蔓延する「予算がない」という思考停止からの脱却。収益を生み出し予算を構築してこそ「ビジネス」。嘆く前に、どうすれば収益を生み出し、AI導入が可能なのか。ビジネスモデルの再構築にこそAIを活用すべきだろう。そして第三にデータリテラシー以上に重要な好奇心、探究心に基づいた文化変革である。本レポートは、成功の最大の鍵を握るのは「好奇心」であると説く。既存のデータをどう活かすか、AIで何が可能かを探求し、面白がるマインドセットを組織全体で醸成しなければならない。遺伝的に「新奇性探究心」に欠ける傾向が指摘される日本人にとって、大きな壁とも言えよう。
AI時代におけるスポーツの価値は、テクノロジーによって人間を排除することではない。テクノロジーといかに共存し、人間ドラマをより深く、より広く届けるか。日本のスポーツ界が、恐れずにこの変革の波に乗り、新たな「スポーツとAI」の世界を切り拓くことを期待したい。
参考文献
•G42 and The Future Laboratory (2025). The Future of Sport and AI 2025.•MIT Media Lab (2024). The GenAI Divide and Strategic Implementation.•NTT公式発表資料 (2025). LLM “tsuzumi” 2.0 and Smart Stadium Vision.
•PwC (2024). Global Sports Industry Outlook 2030.

