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第4回 国家分裂時、オリンピックを目指すアスリートは どのように救われたのか(旧ユーゴスラビア編)

第4回 国家分裂時、オリンピックを目指すアスリートはどのように救われたのか(旧ユーゴスラビア編)
早稲田大学大学院スポーツ科学研究科
木村俊太

国家とは何か? 自明と思われがちだが、スポーツにおける国代表を見ることで、私たちが当たり前だと思っていた「国家観」は大きく揺らぐ。今回はソ連崩壊とほぼ同時期に起こった、ユーゴスラビア分裂時の事例を取り上げる。

融ける国境線

1991年12月のソ連崩壊による冷戦終結は、その前段階も含め、世界のパワーバランスを大きく変えることとなり、それまで覆い隠されていたさまざまな矛盾があちこちで噴き出す事態となった。その一つがユーゴスラビア紛争だ。ユーゴスラビアはのちに「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」などと言われるほど、多様性に満ちた連邦国家だった。ソ連の衛星国ではなく、いわゆる「自主管理社会主義」を掲げていたが、それでもソ連崩壊、社会主義陣営の弱体化の影響は大きかった。社会主義というタガが緩み始めると、各共和国や民族主義者たちが自治を求める動きを活発化させ、紛争となり、国家は分裂していくこととなった。

1991年6月、スロベニアとクロアチアがユーゴスラビアからの独立を宣言、同年9月にはマケドニア(現・北マケドニア)が独立を宣言した。これがユーゴスラビア分裂の第一段階である。

NOC暫定承認でアスリートを救え

ユーゴスラビアの分裂は、旧ソ連の崩壊と同様、目前(1992年2月)に迫っていたアルベールビルオリンピック、そして同年夏に控えたバルセロナオリンピックにおける代表選手たちの処遇問題を引き起こした。旧ソ連の崩壊時、IOCは各国NOCの承認に関して、国際社会の動きと歩調を合わせるスタンスを取った。スロベニアとクロアチアのNOC承認に関しても同様で、両国がヨーロッパ共同体(EC)に国家として承認された2日後の、1992年1月17日に両国NOCは暫定承認され、アルベールビルオリンピックに独立国としての参加が許された。

ところが、ほぼ同時期に独立を宣言したマケドニアには、思わぬところからクレームが入った。オリンピック発祥国ギリシャから「古代マケドニア王国を継承しているのはギリシャである」「マケドニアを名乗るのは、ギリシャ領マケドニアを将来的に併合しようとしているからではないか」と言われ、国名変更を求められたのである。一方、マケドニアは「国名は自国で決める権利があるはずだ」と主張し、対立することになってしまった。これにより、国際機関による国家承認も遅れ、IOCによるNOC承認も遅れてしまうことになった。

こうした経緯により、アルベールビルオリンピックには、独立したスロベニアとクロアチアは国家として、残ったユーゴスラビアはそのままユーゴスラビアとして参加したが、マケドニアは不参加となった。IOCとしては国際機関による国家承認の有無をNOC承認の基準としており、多くの人が納得できる形でオリンピックを迎えることができた。ところが、このあと事態は急変する。ユーゴスラビアの国家分裂はこれで終わらず、次の第二段階を迎えることになるのである。

国連安保理決議がスポーツ界にも及ぶ

アルベールビルオリンピックが終了した直後の、1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立を宣言すると、独立賛成派と独立反対派との軍事衝突が勃発し、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争へと発展した。4月にECがボスニア・ヘルツェゴビナの独立を承認、5月には国連加盟を果たしたが、これに不満を抱く勢力(主にセルビア人勢力)による軍事行動が激化した。これと前後して、連邦に残った共和国(セルビアとモンテネグロ)が社会主義を放棄した形で新たにユーゴスラビア連邦共和国(以下、新ユーゴ)の設立を宣言している。

この紛争に国連が介入することになるのだが、これがスポーツ界にも大きな影響を与えることとなった。国連安保理は同年5月に直ちに停戦に応じるようにとの決議を採択するが、紛争が収まることはなかった。国連安保理はこの事態を、新ユーゴによるボスニア・ヘルツェゴビナへの弾圧と見なし、新ユーゴに対する制裁決議を複数回、採択する。その中でスポーツ界が特に問題としたのは、5月30日に採択された「決議757」である。そこにはすべての国が「ユーゴスラビア連邦共和国(セルビア、モンテネグロ)を代表する個人または団体のスポーツイベント参加を防ぐために必要な措置を講じること」とあった。つまり、「すべての国は新ユーゴ代表の個人選手、団体チームがスポーツイベントに参加できないようにしなければならない」という決議を国連安保理が採択したのである。バルセロナオリンピック開幕まで、2か月を切っていた。

世界を動かしたサマランチ外交

国連安保理の「決議757」を受け、スペイン政府はIOCのサマランチ会長に対して、「スペイン政府は国連安保理決議757を文字どおりに適用する」「スペイン政府は新ユーゴ代表選手の入国を拒否する」と伝えてきた。6月12日のことである。

IOCは苦しい立場に立たされることとなった。国連安保理の決議に従って、スペイン政府の通達のとおり、新ユーゴの選手たちを排除してしまえば、「政治からの独立というオリンピックの理念を捨てた」と非難されるかもしれない。一方、国連安保理決議を無視し、新ユーゴの選手たちを参加させれば、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争という悲劇を無視したとも受け取られかねない。そもそもスペイン政府が新ユーゴの選手たちの入国を拒否しているので、現状では選手たちがオリンピック会場に辿り着くことは物理的に不可能だ。

IOCは新ユーゴのアスリートたちの個人参加を認めてもらうべく、国連安保理へ働きかけることにした。サマランチ会長はイギリスのメイジャー首相と会い、事情を話し、理解を得た。7月初めのG7(ミュンヘンサミット)で新ユーゴのアスリートたちの個人参加が提議され、受け入れられた。IOC、そしてサマランチ会長の熱意が通じた形となったのだが、これですべてが解決したわけではなかった。

IOCが見せた矜持

IOCは当初、旧ユーゴスラビア諸国のアスリートたちを、旧ソ連のEUN(統一チーム)と同様の方法で参加させようとした。すでにアルベールビルオリンピックでの前例があるため、スムーズに事が運ぶのではないかと考えたのだ。しかし、旧ユーゴスラビアの状況は、旧ソ連のものとは決定的に違っていた。それは、お互いがリアルタイムで武力衝突しているという点だった。戦っている相手と肩を並べて、笑顔で開会式の入場行進を行うなど、特に攻め込まれているボスニア・ヘルツェゴビナ側が受け入れるはずもなかった。ボスニア・ヘルツェゴビナは統一チーム案を正式に拒否した上で、自国のNOCを認めるよう、IOCに求めた。

IOCの最終判断は、ボスニア・ヘルツェゴビナのNOCは暫定承認、新ユーゴのアスリートは個人競技のみ参加可とし、団体チーム競技は不可とした(新ユーゴの基準はマケドニアにも適用された)。これにより、オリンピックに「独立参加選手団(IOP)」という新たなカテゴリーが創設され、以後の前例として適用されることとなった。国連安保理も新ユーゴのアスリートがIOPとして参加することを了承し、スペイン政府に「新ユーゴのアスリートがIOPとしてバルセロナオリンピックに参加することは、決議757違反とはならない」と通達した。

国家分裂時など緊急事態におけるIOCの対応は、これまでは国際機関(国連など)の判断に沿ったものであったが、このバルセロナオリンピックでは国連安保理の決定とは異なるIOC独自の見解を持って、国際社会に働きかけることとなった。これによって、オリンピックへの参加が危ぶまれた多くのアスリートが救われた。政治的権力からの独立を掲げるIOCが矜持を見せた出来事であった。

参考文献
柴宜弘2021『ユーゴスラヴィア現代史 新版』岩波新書 IOC1994「国際オリンピック委員会の百年 第3巻」(穂積八洲雄訳)(NPO 法人日本オリンピック・アカデミー公式サイトデジタル・ライブラリー掲載(https://olympic-academy.jp/joa_digitallibrary/joa_digitalmaterial/ioc100years/)) 在スロベニア日本国大使館「スロベニア共和国概況」令和5年3月 在クロアチア日本国大使館「クロアチア概要」2016年1月 在ボスニア・ヘルツェゴビナ日本国大使館ホームページ(https://www.bosnia.emb-japan.go.jp/JPN/BosniaInfo.html)「ボスニア・ヘルツェゴビナ(BH)概要」(2026年2月22日閲覧) 北マケドニアオリンピック委員会ホームページ(https://mok.org.mk/za-nas/)(2026年2月22日閲覧)

 

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