デフスポーツとテクノロジー
デフスポーツとテクノロジー
設楽明寿│筑波大学大学院図書館情報メディア研究科博士後期課程
デフスポーツは,ろう・難聴者(聴覚障害者)が参加するスポーツの総称である。2025年にはデフスポーツの祭典であるデフリンピックが東京で開催される。ろう者の独自の文化モデルの視点でみた時、デフリンピックはデフスポーツに携わるコミュニティにどのような影響をもたらしていくだろうか。
デフリンピックの現状
私は生まれつき、ろうです。手話をきちんと覚えたのは、大学に入ってからです。それまでは人工内耳を装用していました。小学校は聞こえる人が通う学校に行き、陸上競技を始めました。筑波技術大学の修士課程1年生のときに、デフリンピックに出場し、4×100mリレーで金メダルを取った経歴もあります。
筑波大学の博士課程で学びながら、筑波技術大学では研究員として仕事をしており、ろう者、難聴者に対してのアクセシビリティ向上に伴うテクノロジーとの共存をテーマにした研究をしています。
デフリンピックはオリンピックやパラリンピックのような国際総合スポーツ大会の一つで、ろう・難聴者(聴覚障害者)が参加できます。1924年が初めての開催で、夏季、冬季、それぞれが4年に一度開催されます。2023年は、トルコのアンカラで冬季デフリンピックが行われる予定です。そして夏季は2025年に日本の東京で開催する予定になっています。
2014年の調査では、日本のデフリンピックの周知度は11.2%であったという調査があります。低い周知度では当然スポンサーが見つからないので、競技団体ごとに資金を集めるという状況でした。今は少しずつ変わっていますが、オリンピックやパラリンピックと比べて十分なスポンサーが得られていないという状況は変わりません。そのため、オリンピックでは選手やスタッフの自己負担はほとんどありませんが、デフリンピックの場合の活動はほとんどが自己負担です。
また職場からの理解が得られずに、出場を断念したという声もあります。最近ではアスリートとしてデフ選手が採用され、国際大会にもスムーズに出場できる体制などが少しずつ整ってきておりますが、まだ十分ではありません。
さらに、選手の人材発掘が困難という面があります。ろう学校がありますが、ここの部活は種目も参加者も少ないです。例えばサッカーは11人必要ですが、11人集まらなかったり、集まったとしても試合相手が見つからないという状況があります。
デフリンピックの特徴
デフスポーツの大きな特徴には「見る」ということが挙げられます。水泳競技はスタート位置にランプが設置されており、また、空手の場合は審判の合図に対応して光るお知らせのランプがあります。サッカーの場合は、審判が合図をするときには、笛の代わりにフラッグを振って合図をします。陸上競技の場合は、スタートランプが順番で光ってスタートするという形です。
基本的にルールは聞こえる人たちのスポーツと同じですが、個々の競技特有の課題もあります。例えば陸上競技では、体の反応時間を調べると、音の反応と視覚の反応で比較研究をした結果、視覚的な反応が、30ミリ秒遅れることがわかっています。
聞こえない人の場合、視覚情報でスタートを切るので、走る技術が同じであっても、タイムは少し遅れる結果になることがわかっています。
今回こちらの表で通常のスポーツ、パラスポーツ、デフスポーツの三本柱で比較をしてみました。パラスポーツのルールは、ほとんどルールが通常のスポーツと異なります。
例えば、車いすバスケでは、障害の度合いに合わせて点数化し、チームを構成するルールになっています。また、補助具である車椅子や義足を使うのがパラスポーツの特徴になります。競技環境では、ブラインドフットサルでは、壁のようなものがコートの周りに設置されています。
これらの違いは観客から認知しやすいと思います。またその理由もわかりやすいと思います。一方デフスポーツの場合、ルールは基本的に、一般的なオリンピックと同じになります。また、音の聞こえ方の公平性を保つために、全選手、補助具として人工内耳や補聴器の使用は禁止されています。競技環境についても、基本的には同じですが、例えば陸上競技のピストルがランプになっていたり、サッカーの笛がフラッグになっていたり、視覚情報に置き換えられている違いがあります。
ろうの文化モデル
ろうを考える上でのポイントとして、アイデンティティの視点が不可欠です。中でも医学モデル、社会モデル、そして文化モデルという三つのモデルが語られます。
医学モデルは、聞こえないということにフォーカスして治療、リハビリをしていくという視点のものです。つまり人工内耳や、補聴器を装用したり、発声訓練をして話せるようになったりということです。
一方、社会モデルについては、聴覚に問題の視点を置くのではなく、その社会やコミュニケーションの問題として、そこを直していこうという視点です。そして文化モデルというのは、手話やろう文化を一つの言語、文化として捉えます。手話を使う文化を持つ者としてのアイデンティティという視点です。
日本においてはこの3つのモデルがしっかりと切り分けられて語られることは少ないように思います。聞こえる人も聞こえない人も、同じ日本人なら同じだよねという雰囲気があると思います。例えばAさんという方がいて、私が私はろう者だと言ったときに、その背景にあるのは、文化のことなのか言語のことなのか、医学的なことなのかっていうところがわかりにくいのが現状です。聴覚障害者という言葉もありますが、アイデンティティを語るにはこれも定義が広すぎます。
身体性とテクノロジーとの関連について、人工内耳や音声認識などのテクノロジーは今かなり発達しています。しかし、政策や教育医療の分野、つまり、聞こえる人が圧倒的に多い場所で制度などについて考えていくときに、聞こえる人が優先になってしまいます。例えば医者は聞こえる人が多いですが、医学モデルを提唱して聴者寄りの考え方になってしまうという恐れがあります。
テクノロジーについても、かなり聴者の文化・テクノロジーに、ろう者が影響を受けていると言わざるを得ません。ろう者の視点のテクノロジーというのがあまり語られない現状があります。なので、ろう者の見方、文化から生まれるテクノロジーが実はあるのではと思っています。
例えばRUNWAYというツールがあります。文字からビデオの映像を作ったり、また絵や写真から映像を作るAIです。これらのAIは、マジョリティーの聴者の見地の蓄積でデータベースを作っているものです。つまり、ろう者に対する偏見や無知、バイアスも含まれた形でデータは蓄積されていると考えられます。このように、ろう者にかなり影響があるということは言わざるを得ません。
手話で話したら、AIが考えて手話で答えてくれるシステムがあれば、言語としてすんなり入ってくるかもしれませんが、そういった蓄積は現状ありません。ろう者の発想ならではの視点、サービスがないのが現状です。
最近、クラウドファンディングで場作りを進めている5005という取り組みがあります。ろう者が集まって視点や気づきを集め、そして形にしていくような雰囲気をつくる場所となっています。様々なろう者の発想を形にできる場になり、本当の意味で新しいデフスポーツも生まれるのではと期待しています。
Q&A
Q. 医学モデルに対して社会モデルというのはよくわかるつもりですが、文化モデルの部分が初めてで、わからなかったんです。
医学モデルは、健常者と言われる人の体があって、それを基準にした場合、機能障害が起こってるという考え方をして、何とかアプローチして体を変えていこうということだと思います。社会モデルは、それを治せるものなら治しても良いけれど、治らないときには、それをそのまま社会が受け止めて、機能が欠けていると言われる健常者の社会において、そういう状態でも、不便を感じないように社会を変えていこうというふうなことだと私は思っています。
文化モデルという視点は、ろう者や難聴者と言われる人は健常な人たちが当たり前だと思ってる文化的環境、背景に、適合しづらい何かがあるということしょうか?
A. 文化モデルは、言語モデルという人もいます。基本的に難聴者は、聞こえる人たちの世界に合わせたいという気持ちがあるので、難聴者だけの文化モデルという考え方はないと思います。一方で、ろう者だけの文化的慣習行為というのがあります。例えば、相手を呼ぶときは、耳が聞こえないので、肩を叩くとか、目の前で手をひらひらさせるというような、はっきりと視覚的に訴える方法での呼び方になります。
また、文化と言語は切っても切り離せない関係です。ろう者は、手話を言語として持ち合わせているので、それが実はろう者だけが持つ文化に結びついています。しかし、現状では、ろう者の場合、聞こえる人の考え方の音情報での教育、音での生活という文化に合わせていかなければならなくなってしまっています。
Q. つまり、手話自体は大阪弁といった方言のような観点ではなくて、そもそも認知の構造が違うということですね。言語学の考えで言うと、私たちの認識は、日本語を通じて見える世界が認識できると考えられています。先天的に耳が聞こえない人は、そもそも音で世界を見ることができないので、手話という言語を通じて見る世界ということになり、それは一般の健常者が音として認識し、その意味を理解できる世界とは違う世界が見えるわけですね。逆に言えば、社会モデルは、自分たちが参加をするために社会障壁を解決していくかが主題になっていたと思います。ですが、文化モデルは文化構造を変えるんじゃなくて、文化が違うということを前提にして、社会が社会の構造を変えていくような配慮があるともっと生きやすくなるということでしょうか
A. その通りです。言語と文化は合わさって初めて成り立つものです。そういった観点も含めて制度が作られていってほしいと思います。
Q. 日常生活の中で、文化の違いによる生きづらさがあるということを私達は認識しなければいけないということはよくわかりました。一方、スポーツや国際スポーツは、日本人でもイスラムの人でもキリスト教の人でもみんな同じルールで同じように競っています。スポーツの場合は文化の違いを超えて成立します。スポーツの現場において、オリンピックで、色々な国の色々な民族が同じルールで競うという状況に比べ、デフリンピックの場合何か違いがありますか?
A. オリンピックとデフリンピックのルールがほぼ同じで、違いが気付きにくいという点は課題の一つだと思います。スポーツはもともと文化、遊びから始まって競技に進化して来ましたが、ろう者の子供たちが遊びやすい遊びを考えて、それがスポーツに進化していけば、違いがより形として見えるスポーツが作れるのではと思います。また、デフスポーツをやるために、聞こえない人を集める場合も、難聴者もろう者も一緒に活動する場合が多いです。様々な文化モデルというところが混在している形になります。まだまだ議論が必要ですが、ろう文化から新しいスポーツが生み出された時に、ようやく通常のスポーツとの違い理解が理解されていくのではと思います。
Q. つまり文化が違うと認識の仕方が違うので、デフ特有のスポーツがあっても良いのではということですね。健常者が開発したスポーツやルールをそのまま当てはめるということを超えて、デフ特有の文化に適したスポーツが開発されても良いのではというアイデアだと思いました。
デフスポーツと一般のスポーツを区別するということが前提ではなく、健常者もデフも一緒にスポーツを楽しめるような場があってもいいと思うし、それをデフの方だけでデフリンピックという形で競う場があってもいいと思います。
スポーツをするということについても、私達健常者が感じている世界とは違う、色々な身体感、文化の中でやられてるということがわかりました。また、いわゆる見るスポーツということについてもずいぶんと違うということを感じました。ラジオが聴覚障害の方には全く意味をなさないというのはよくわかるんですが、テレビでさえ、私達は選手の活躍をテレビやニュースで報道を聞いて知り、場合によってはプレーを見ますが、デフの方は、それを私達と同じようにゲームを見ることができないという難点があるということを知りました。
デフの方は、スポーツのファンになりにくい構造が今の現代の社会に存在している、スポーツをするということについても、健常者と同じではないし、見ることでスポーツを楽しむという機会についても、割とバリアがまだ存在しています。その上で、普通の方々に今回のデフリンピックが終わった後にどんな社会、どういう認識がもたらされると良いとお考えですか。
A. デフリンピックが開催されてよかった、終わり、ではなくて、デフリンピックの本当の意味、デフスポーツの意義を考えるきっかけになってほしいなと思います。東京オリパラのように、参加しやすい社会モデルが整備されたり、そういう視点を持った観戦環境も、後世に残していきたいですし、スポーツ選手、ろう者の両者が発案し考えたことが社会に受け入れられて、それが仕組みとして作られていくような環境になると良いなと考えています。
▶本稿は2023年10月10日(火)に開催されたスポーツ産業アカデミー(ウエビナー)の講演内容をまとめたものである。