30年を振り返る── スポーツ産業学の今、そしてこれから
尾山 基│日本スポーツ産業学会共同会長/株式会社アシックス代表取締役会長CEO
平田竹男│日本スポーツ産業学会共同会長/早稲田大学教授
北村 薫│日本スポーツ産業学会理事長/順天堂大学名誉教授
司会 中村好男│日本スポーツ産業学会運営委員長/早稲田大学教授
1990年10月2日に発会式が開催された本学会は、中村金夫氏(日本興業銀行会長)を初代会長として活動を開始した。その後、鬼塚喜八郎会長、滝鼻卓雄会長と続き、現在の尾山基会長が2013年に就任して、16年からは平田会長とともに2人会長での運営体制になった。ここでは、この30年間にスポーツ産業界、学術界で何が起こったのか、それから私たちの学会が直面する課題とこれからの展望を皆さんに語っていだだいた。
30年間を振り返って
尾山 昔の通商産業省産業政策局にて、「スポーツビジョン21」、「スポーツ産業研究会報告書」、を取りまとめられたのが平田先生です。平田先生は、官僚と教授、それぞれのお立場から、スポーツ産業学会の歴史を真ん中で御覧になった方です。私は、産業界の視点から振り返っていきたいと思います。
1991年に東京で開催された世界陸上では私も現場のスタジアムにいましたが、男子100メートル、男子走幅跳、男子4×100メートルリレーで世界新記録が誕生し、大変盛り上がった大会だったと思います。
1993年にはJリーグが開幕し、日本に新たなスポーツの姿をもたらしました。
また、2007年に開催された東京マラソンでは、3万人以上の人々が集まり、これを皮切りに中堅地方都市でも数万人が集うマラソン大会が開催されるようになりました。東京マラソンの倍率は12倍を超えるなど、一大ムーブメントが巻き起こり、スポーツが人々の日常生活の中に入り、健康やエンターテイメントの方向に向かっていったと思います。
アメリカにおいては1980年代からフィットネスブームが巻き起こり、遅れてやっとヨガが日本でも女性中心に広がってきました。近年eスポーツやFISE(アーバンスポーツの国際大会)に代表されますように、新しいアクティブなインディビジュアルスポーツや、デジタルが注目される世界に入ってきたと思います。
スポーツのイメージも「学校体育」から「エンターテイメント」のほうに意識が向くようになってきました。フットサルの例でお話しますと、90年代初頭から、チームや学校体育ではく、フットサルをしたい人が好きなタイミングで集まってプレーを楽しむ、という楽しみ方が増えてきました。
観戦スタイルも、デジタル技術の活用や、地上波に乗せずDAZN(ダ・ゾーン)やNetflix(ネットフリックス)等で楽しむという方向に変化しています。新型コロナウイルス感染症拡大前から既にあった土台が、withコロナの世界に入り、時代の流れにぴったり合ってきたのではないかなと思います。
今後、withコロナの新しい世界において、スポーツの楽しみ方、スポーツの見方、エクササイズは、どのようになっていくのでしょうか。
当社の状況を申し上げますと、2016年に買収したフィットネス・トラッキング・アプリ「Runkeeper」の新規登録者数は新型コロナウイルス感染症拡大後、大幅に増大いたしました。2020年4月から6月の新規登録者数は昨年から176%アップ、月間アクティブユーザーも約40%アップしています。また、2020年4月には、昨年買収した北米第3位のレース登録サイト「Race Roster」を活用して、バーチャルレースを実施し、世界中のランナーにご参加いただきました。きっと今後はこのような世界が中心になっていくのだろうと思っています。これらのサービスはeコマースとも連動させておりまして、レースの検索・登録、商品購入、栄養管理、コーチング、トレーニング、大会当日、次の計画まで、総合的にお客様をサポートしていきます。
すなわち、100%物販の会社から、アプリケーションやサービスによる収入等、いわゆるプロダクト以外の売上比率を上げる、また、店舗に行かなくてもネット等でご購入いただける比率を上げていきたいと思っています。販売につきましては、やはり中国社会が参考になりますが、サービスレベルでは日本も決して遅れていませんので、日本の知見と海外の知見を併せたものを全世界的に広げていきたいと考えております。
平田 尾山会長からご紹介のあったスポーツ産業研究会、そしてスポーツビジョン21が始まったのが、1989年でした。これがスポーツ産業学会の発足につながり、91年の4月にJリーグの最初の10チームを発表したときの基本的な理念を構成したことになったのが、スポーツビジョン21のプロセスでの関係者の合意形成だったわけです。
当時、通産省の産業政策局にサービス産業室というところがありまして、興銀の会長である中村金夫先生らが一堂に会する会議を持ったわけですけれども、鬼塚社長や水野社長、さらにはオリックスの会長とかもおられまして、スポーツを産業として産業政策局の会議室に集まるということに、皆さんすごく印象深く感じておられました。というのは、当時の日本の産業政策は鉄鋼とか半導体とか工作機械、古くは繊維、石炭が産業政策の歴史の中にあるわけですけれども、スポーツという産業が通産省の産業政策の中に位置づけられることになったのだと本当に万感の思いで皆さんに集まっていただいたということを覚えています。
そこには、3つの大きな軸がありました。
1つが基本理念をつくること。スポーツ産業はひときわ大切な産業で、国家にとってなくてはならないものであり、こうしたスポーツ産業の公益的使命というものを明確に位置付けました。スポーツ産業は一般的な民間の産業の中でも国が政策的にプライオリティを置くべき公益的産業であるということを位置づけたわけです。
2つ目が人材の育成でありまして、これがこのスポーツ産業学会の発足につながったわけであります。当時、スポーツは割と訓練的なものという色彩が強く、今の体罰みたいなものにつながっているわけですけれども、訓練から楽しさを教えるそういう人材をどのように育てるべきか、スポーツ産業は大事なのだけれども、当時の教員を養成する大学のメニューだけでは、老若男女にスポーツを楽しませるというビジネスに向けるためには、メニューが足りない、人手が足りないということ。さらに楽しさを教える中身も教員向けだけではなくて、やはり軍事訓練、規律訓練、こういった要素がすごくあるということでありまして、これは体育大学を使わない手はない、教員の養成からスポーツビジネスの人材の担い手に変えようではないか、ということになったわけです。そして、その体育大学の中にスポーツビジネス、あるいはスポーツ産業、スポーツサービスという、そういう新しい学科をつくっていただくという営業行為的なことを日本女子体育大学とか日本体育大学とか、順天堂。そして筑波大学、大阪体育大学にも寄附講座をしながら発展させていったわけであります。
そして、このスポーツ産業学会のきっかけは、学科をつくっても教える先生がいないのではないかというために学会というものが必要、あるいは新しい論文というものが必要ではないか。過去の教員養成のための学会はあるけれども、そういうスポーツを楽しむスポーツ産業に関する論文を受け付ける学会がないではないかと。そういう学会がないと、そういったところで学位を取って中心的な教授になっていく人材も出ないのではないかということで、このスポーツ産業学会の発足につながったわけであります。
3つ目の軸が、場をどうつくるかということ。スポーツをする場というものが公園なのか学校なのかということ以外に、当時東京ドームがやっとできるとか、そのときは三菱重工さんが競輪場のバンクを地下に埋めるといったところの御関係でメンバーにも入っておられたわけですけれども、それとともに総合型スポーツクラブ、それからアリーナ、そしてリゾート地という場を議論していく、その場のための政策的な支援をどうするかということを話したというのがこの3つ目の軸でありました。
その当時から思えば、今、バスケットやコンサートができるアリーナの構想がどんどん出ておりますし、Jリーグもそのとき並走してつくっていたわけですけれども、そのJリーグが50を超え、J3もできて、それぞれ新しい形でスタジアムをつくってきているということで、大きな意味ではスポーツ産業研究会で提案したところの理念、それから2つ目の人材育成も、今200以上の大学でスポーツ産業、スポーツビジネスがかかわる学科・コースを持つようなことになったと伺っていますけれども、そういう意味では人材のほうも不十分ながら供給できる構えができたということだと思っておりますし、3つ目の場という意味でも、このアリーナ、スタジアム、総合型スポーツクラブ、そして新しい形での部活、こういったものが議論されているという意味では当時のスポーツ産業学会が目指したものが、いわゆる単に学校教育ということではなくて、大きくそこから解放して産業構造の中にいるという意味では、この30年間そのビジョンの流れは大きな骨格は実現しつつあると理解をしているわけであります。
この30年間このスポーツ産業学会が、体育大学からスポーツビジネス、スポーツ産業のほうに大学界を変えていくという意味で果たした役割は、計り知れないぐらい大きなものでありまして、改めてこの30年間の関係者の御努力に対して敬意を表したいと思います。
次に、この30年間のスポーツ界を振り返ります。まずはサッカー。スポーツ産業学会の設立とともにやっていたのが、川淵さんと私の間でJリーグの基本理念というものの作成であります。93年の開幕ですが、10チームを発表したのが91年4月でありまして、ナビスコカップは92年に始まりました。「企業の手から市民の手に」という大きな理念、Jリーグの企業名を出さないというところを仕切れたのも、スポーツビジョン21の中での仕事でありました。それから日韓ワールドカップ、そしてなでしこをつくって、なでしこが東日本大震災で日本中が大変な中で世界一になったといったストーリーができました。
89年、90年と勉強して、Jリーグが91年に固まったわけですけれども、そのころからいわゆる強くなって、人気が出て、お金も集まってというトリプルミッションの好循環というものが広く言えばずっとあったということだと理解しているわけであります。
2つ目は、スポーツくじ。スポーツ界が自分でお金を持つ、政府資金でないお金をどう持つかという中で、スポーツくじが実現しまして、大きなお金を税金でない形でスポーツ界に振り向けることができました。このお金を生んでいるところが、先ほど1番で申し上げたサッカーの試合ということです。
今度、国会に法案を出す話が出ておりまして、早ければ臨時国会でバスケットボールのくじも実現するという流れもありますけれども、いずれにせよ自主財源として、大きくお金を持ってきているというのが一つの流れです。
次は、プロ野球。この30年の間に、ダイエーができて、ダイエーがソフトバンクになり、DeNAができ、何よりもつながったのが楽天の新規参入というところでありました。これは会長を務められました滝鼻さんがジャイアンツのオーナーとして随分苦労されたわけでありますけれども、その時期に楽天が入り、かつ楽天が入った後、新しいやり方のパ・リーグで井上理事が随分リーダーシップを発揮されていますけれども、いい形で展開しているというところであります。
次は東京マラソン。これが市民マラソンブームをどんどん大きくしておりまして、マラソンブームが2007年以降起こってきて、コロナになってからも市民マラソンへの関心がどんどん増えているわけであります。
次は、オリンピック・パラリンピックの日本・東京開催の決定です。残念ながら今年の3月30日に1年間の延期が決定されまして、また来年の開催自体も大分不安なまなざしで皆さん注目していただいているということです。
ただ1年先に延びましたけれども、既に実現していることがたくさんありまして、パラリンピックの日本開催を契機に駅のバリアフリー、いろいろなところに障害者が使いやすいトイレ、ホームドアの設置といったことが日本各地でどんどん進んでおりまして、来年に延びたけれども、バリアフリー、共生社会、パラリンピックのレガシーというものは開催前に既に実現しているかのように感じるぐらい日本はパラリンピックに関して相当の進展を遂げたと思っております。このオリパラという名前が定着して、オリンピックだけじゃなくてパラリンピックと一体化した成功というものを目指してきたわけですけれども、パラリンピックの日本開催が決まって本当によかったと感じています。
次は、スポーツ庁。発足はしましたが、まだ国民にスポーツ庁が何をしているところかというのはあまり伝わらなくて、ただアスリートの人がトップになったというところはアスリートが喜んでおられるということは間違いないわけであります。2013年に日本・東京でのオリパラが決定しましたけれども、だからといってスポーツ参加率が爆発的に増えたわけでもなければ、新しい政策が大々的に進められているわけでもなく、これは今後またスポーツ産業学会の皆さんでスポーツ庁というものを本当に国益のために働く役所に後押しするということが必要じゃないかと感じるわけであります。
次です。SNS、携帯電話、さらにはネットのAmazonだNetflixだといったところがどんどんスポーツに行きまして、この前も大相撲の無観客試合というものがありましたが、NHKだけではなくてYouTubeでも流したわけでありますけれども、普段大相撲というと高齢者が見ているというのがNHKの視聴率調査なんですけれども、YouTubeを見ますと、十代、二十代の女性が中心となって大相撲を見ていました。
さらにこの前、女子ゴルフの中継がありましたけれども、ネットにおけるすさまじいアクセス時間と件数ということを見ますと、新たな展開を感じます。雨で月曜日まで延ばして4日目をやったわけでありますけれども、テレビ放送至上主義であれば、果たして月曜日に簡単に延期にできただろうかということも感じまして、競技の本質ということからも、SNS、OTTというものが「将来なる」ということではなくて、「今来た」ということを感じています。
次は新たなプロリーグ。Tリーグが初年度10万人集めたり、Pリーグがどんどん地域に広がっていっております。ラグビーもどうなるか楽しみであります。そういう新しいプロスポーツリーグがどんどんできていくという、みんながちょっとずつノウハウを持ち寄るということも出てきているということでありまして、これも新しい時代であるということを感じるわけであります。
最後に、このwithコロナで大変な日々で、選手の皆さんや球団経営の皆さんや、あるいは施設所有者、スポーツジムの関係の方に大変な御苦労がかかっているわけでありますけれども、一刻も早く新しい形でスポーツが発展できる日を待っているわけであります。
withコロナの中でも新しい試みがテクノロジーとともに出てきておりまして、実際に走る人がとても増えています。そして多くの方はまた新しいシューズを買っておられるということでもあります。さらにクラウドファンディングや投げ銭、そういったことでリモートでの応援手段というものが増えてきています。
30年を振り返って次の時代を占うとしたら、このコロナの1年の中で次の時代に来るだろうものが前倒しで来ているということも感じておりまして、ここら辺からまた未来を議論できればと思います。
中村 平田会長、ありがとうございました。
先ほどの設立前の話ですが、筑波大学の成田十次郎先生が体育学会の理事長になられたときに、体育の世界を変えていかなければという思いで通産省に平田先生を訪れたと。平田先生はその当時、サービス産業課の課長補佐でいらっしゃって、成田先生とお会いになったところからこの学会のルーツが始まったと聞いておりますが。
平田 成田十次郎先生は筑波大学の教授で日本の体育を率いておられまして、かつ日本体育学会の会長として体育学会の中心でもありました。一方、成田先生は初代読売クラブの監督であり、東京教育大学のサッカー部の方でしたので、成田先生と私が話していることの8割はサッカーのお話でありまして、そのスポーツ産業の一つの構造をなすのはサッカーをする場であるし、その人材というものは、やはりドイツのプロリーグのように観客にとってもおもしろいサッカー、あるいは全く違う指導法、こういったことを議論していたわけであります。そして、そもそもこのサッカークラブは単に身内でサッカーを楽しむわけでなく、地域にとって無くてはならない公益的使命を議論させていただきました。ですから成田先生は「川淵君」とか言って、川淵さんとか全筑波のOBとか多くの方を私に強く紹介していただきましたし、私がJリーグの発足のときに貢献できたのも成田十次郎先生の御紹介のおかげです。でも本当に感謝していますのは、体育学会の中心の方が体育じゃだめだということを通産省に言いに来てくださったことです。体育教員を養成しても教員になる比率が激減しており限界を感じるし、学校の教員養成からスポーツビジネス界の担い手を育てるような新しい体育系大学が必要だと。パラダイムの転換が必要だと言ってくださったことです。そして成田先生とスポーツ産業研究会を起こす打ち合わせをするのですけれども、成田先生は、7、8、9月には軽井沢の別荘に行っていて電話がないということで、没交渉にするということだったのですけれども、そんなことで負ける平田課長補佐ではなく、何をしたかというと軽井沢の住所のところに電報を打ちまして、成田先生が慌てて「成田です〜」と言って、ただちに東京に戻ってきていただいたというのが、このスポーツ産業研究会の発足の経緯ということでございます。
北村 順天堂では、体育学部から学部改組でスポーツ健康科学部になり、その中にスポーツマネジメント学科を位置づけました。文部省から認可されたのが1992年12月。1993年Jリーグの開幕の年に、順天堂が日本で初めて、スポーツ健康科学部及びスポーツマネジメント学科を設立したということになります。
その構想を考え、当時の文部省に申請の書類を一生懸命書いたのが実は私でございます。その構想の基になったのは、先ほどから取り上げられているスポーツビジョン21、そして1991年に私入会したスポーツ産業学会でのさまざまな議論でした。
体育学部から学部改組してスポーツ健康科学部、そしてその中にスポーツマネジメント学科をつくる一番大きな原動力になったのがスポーツビジョン21と日本スポーツ産業学会だったということでございます。
現在、スポーツビジョン21、そして日本スポーツ産業学会が実業の世界、実務の世界だけでなく、学術、大学の世界に対しても影響を及ぼしていますが、先ほど平田会長がおっしゃった、スポーツビジョン21の中の人材の育成というところの先駆けとして順天堂も名前を入れさせていただけるのではないかと思っています。
その後、つい最近では、来年学会大会を開いていただく九州産業大学の中にもスポーツ健康科学科がつくられるというように発展してきて、今、231あると思うのですが、スポーツにかかわる学部・学科の中にスポーツ産業にかかわる科目が多数開講されるという状況に至っていることは素晴らしいことと思います。
それから平田会長が言われたように、教員の養成、また論文の受け皿としての学会が必要だったことが日本スポーツ産業学会の設立目標にあったわけです。その結果と言ってよいと思いますが、順天堂の博士学位審査で、日本スポーツ産業学会の学会誌に掲載されたものが4編ほど、博士学位論文となりました。順天堂のドクターコースでの学位取得に貢献しているだけでなく、同様のケースも増えるだろうと予測されるという点で、学会設立の当初のねらいが着実に進展していると考えております。
さて、私は大学でずっと育ってきた人間なので、今までのお話と、少し視点を変えて、学会そのものの30年ということについて考えたいと思います。結論から言うと、体育からスポーツへという流れを強く後押ししたのがスポーツ産業学会だということです。
表1は日本学術会議の学術協力団体の中にスポーツという名称が入っている学会の一覧です。全部で22ありました。1970年代に設立されたのが3学会、80年代設立が5学会、90年代が9学会で、その後2000年代に4学会、ずっと飛んで来年日本体育学会が日本体育スポーツ健康学会に名称を変更します。
1990年代にスポーツの名称のついた学会が急増したと考えていいし、1990年設立のスポーツ産業学会はその先駆けとしての位置にあると言ってよいと思います。
この“体育からスポーツへ”という流れが日本のスポーツのどういう変化を反映しているのかということを考えていきたいと思います。
やはりスポーツの核となるのは、価値として考えると「楽しみや喜び」です。これは個人の感性に関わるもので、それ自体、単体として極めて不安定なものでしかないと私は考えています。したがって、それは社会制度(社会のシステムの中に恒久的に位置づけられる要素という意味での社会制度)に位置づけられることで、社会的に安定することになります。
日本では明治政府が知育、徳育、体育という三育論に基づく政策を展開するわけですけれども、そのときからスポーツというのは体育の教材としてのポジションを獲得し、教育という社会制度の中に位置づけられていました。
しかし1970年代になると、「スポーツ・フォー・オール」という思想が日本に注入され、1972年(昭和47年)の保健体育審議会の答申では、地域社会でのスポーツという考えが提示されました。ただその当時は地域スポーツではなくて、社会体育という概念でして、まだ体育からスポーツというところまで行くものではなかったと思っております。
私自身は、ヨーロッパなどでは地域社会がスポーツの存立基盤を提供していたと考えておりましたので、この「スポーツ・フォー・オール」の中で地域社会でのスポーツが比重を高めるということは自然だと思っていたのですが、1970年代、80年代を見ましても、学校から地域社会へというスポーツ存立基盤の変化の流れが定着しませんでした。
一言で言えば、社会体育を主管していた教育委員会が旗を振っているだけでは、スポーツの存立基盤としての地域社会を築き上げるには荷が重かったんだろうと思います。
地域社会という制度に立脚できない中で、スポーツは安定性が欠如し、その基盤の揺らぎというべき状況になったと考えております。
ここで大きな出来事となったのが、1984年のロサンゼルスオリンピック、ユベロスマジックということになると思います。赤字続きのオリンピックを放映権料とスポンサー広告で黒字にし、スポーツはもうかるものだという認識を世界に広めました。
1993年に開幕したJリーグは、地域社会を基盤とするスポーツクラブライフを構想しておりますし、日本ハムのようにスタジアムを中心としたまちづくり構想もあります。全て地域社会の中でのスポーツということをイメージされていると思うのですが、これらの構想が発展し、日本が将来的に地域社会を存立基盤とするスポーツという方向に向かうということがあることは十分に想定できます。
ただ今後しばらくの間を考えると、やっぱり放映権料とか、スポンサー広告料とか、あるいは企業からの寄附であるとか、地域のスポーツでも例えば企業が所有するスポーツ施設を提供してもらうとか、さまざまな面で産業による経済的、物質的な支えというのがスポーツの存立基盤にならざるを得ないのではないかと、私は考えています。
これが体育からスポーツ産業へという一つの流れであり、この流れが体育からスポーツへという変化の背景にあるといういうことになります。
COVID-19の影響
中村 今、何が起こっているかというと、誰も疑うことなくコロナウイルス問題に直面しているのですが、今どんな状況になっているのでしょうか?
尾山 昨年末から始まったCOVID-19の影響ですが、6月中旬に開催されましたWFSGI(世界スポーツ用品世界工業連盟)で発表されたデータでは、COVID-19によってaccelerate(加速)された競技もありました。まずUSAにおいては、自転車。昨年19年3月と20年3月では売上が2倍になっています。
ランニングシューズの売り上げも伸びました。19年6月と20年6月ではパフォーマンスランニングシューズが30%プラスとなっています。それからフィットネス。3月比においてはフィットネス用品が130%アップしています。他の国では、フランスがロックダウンの数カ月前に比べて、自転車の売上が2倍になっています。中国では6月の19年、20年比較ではスポーツシューズの売上が20%増となっています。それからインドでもロックダウン前と今では、フィットネス用品が2倍増となりました。
Amazonや楽天等、ネット通販の売上が世界中で増えています。そして逆に何が起こっているかといいますと、ブルックスブラザーズのように店舗営業を中心とする企業が破綻しています。アメリカのMUJIもそうです。また、在宅勤務の浸透によってカジュアルウエアで過ごす時間が増え、スーツなどのビジネスウエアが鈍化しました。
それから、日本においては山など、きれいな空気が流れていて、人と密着しないで過ごせる場所の需要が増えているように思います。
消費者全体の傾向として、不要不急のものは買わないという動きが強く、消費全般が鈍化しています。アパレルは特に厳しい状況です。日本においても同様の傾向が見られると思います。
今後チームビジネス、すなわち野球、ラグビー、サッカー、接触型の柔道、バスケット、バレー、ハンドボールなどはどうなっていくのでしょうか。
今後の流れとして間違いないのは、individual(個々人)が好きなロケーションで行うスポーツが非常に増えていくだろうということです。しかし、今のスポーツにおいて、チームスポーツがオリンピックでの実施競技に占める割合も高いです。
最近の日本でのメディア等を見ていますと、やはりwithコロナ、ニューノーマルの中でどのように生きていくのか。いかにコロナと共存していくかという中において、どのようにリスク回避していくか、ということが課題になると言われています。そうなると、これまで伝統的なスポーツとして楽しまれてきた、バスケット、バレー、野球、サッカー、ラグビーといった競技が今後どうなっていくのだろうかということを感じています。
中村 靴が売れている、自転車も2倍になっているということでしたので、スポーツをやっている人、身体を動かしている人が増えているのではないかという、そういう実感はありますか?
尾山 世界中であります。日本はあくまで「要請」レベルなので外にも出られますが、海外は「order(外出禁止命令)」です。ASICS Americaのあるアーバインのあたりでは、町の中や住宅街でも外出しているとパトカーが来て問いただす、フランスでも反則金等を伴う外出規制が発令され、運動や散歩による外出も1時間以内、自宅から1キロ以内に制限されました。法律で自粛を余儀なくされている状況において、徐々にそれが緩くなってきたときに、走る、散歩をする、ホームフィットネスを楽しむ、など、いわゆる健康に対しての意識が改めて変わってきたのではないかと思います。
withコロナへの心構え
平田 今回は30周年を振り返るわけですけれども、35周年を振り返ったときに、あるいは40周年を振り返ったときに、「そんなときもあったんだよね」というぐらいのことになったらいいわけですけれども、このwithコロナの期間がどの程度の期間続くかどうかは別として、いずれにせよ今後起こり得ることが前倒しで起こったというのは間違いないと思うのです。
ですからアパレルであり、ショップであり、そういったものがネット化(DX化)する。そういったことというのはとても進みましたし、あとはオフィスの形態も「将来はテレワークだよね」とか、いろいろなことが議論されていましたけれども、これが今起こったということです。
私たちスポーツ界は、将来起こるかもしれないといったことを自分のものにしなければいけない。それがスポーツ界です。例えば1日3時間ぐらい皆さんの通勤時間が減りました。その3時間を誰が取ったのでしょうか。そのうちの2時間を家族が取ったのはすばらしい。あとの1時間はスポーツが取れたのでしょうか。基本的にこれを取ったのはゲームであり、ネットであったということだったと思うのです。ですから我々が今回30年を振り返って、40年、50年を考えるときに、やはり通勤時間が減った部分をスポーツ界がどうゲットできるのか、そのためには1人でできるスポーツというものは、今まで通勤時間があまりにも多かったときにはスペースがなかったかもしれませんけれども、尾山会長がおっしゃったように自転車、これは通勤も兼ねるかもしれませんが、あるいは走ること、1人でできること、最近ジムを自宅に作る人も増えているようですけれども、こういったことをぜひ的確にスポーツ界は取っていく必要があると思うのです。
今回前倒しで起こっているあらゆることをぜひ整理して、そのうちスポーツ界がゲットするものは何かというヒントを得たいです。
中村 まさに今回の変化は起こるべくして起こった。コロナウイルス問題が原因として起こったというよりも、起こるべき変化、そのうち起こるであろう変化が今一気に達成されたということで、その一つに通勤時間に代表されるような時間にゆとりができるという変化がある。そこにスポーツを行う時間がどれだけ増えるのか、スポーツを見る時間がどれだけ増えるのかという観点で考えることも重要になるということと理解しました。
尾山 平田先生の指摘、大変おもしろいです。3時間の通勤にかかる時間を何が取ったのかということでありますが、これも世界スポーツ用品工業連盟における課題でございます。日本も含め海外でもここの時間を取っていったのはゲームです。子供たちのスポーツの時間がゲームにシフトしてしまったのです。
ただ、特に海外の方は、健康的ではない時間を2カ月〜3カ月過ごしました。今回できた時間のゆとりをいかにスポーツや身体を動かすというところに持っていくのか。平田先生の今の話は非常に興味深く強い提案だったと思います。これらの時間の使い方は既にインターネットに取られてしまっているのです。そのため、世界スポーツ用品工業連盟で「子供たちに運動させよう」と言いながらも、スポーツ実施率はずっと落ちてしまっています。子供に自転車を買い与える理由をドイツ人に尋ねたところ、「町からライン川まで子供たちを自転車で走らせ、ライン川沿いを歩いて帰ってもらうため」と言いました。つまり運動させるためなのです。子供と手をつないで歩くと距離は知れていますので。
平田 アメリカで何が起こっているのかというと、ネット型のジムがどんどん大きくなって、そしてまた店でやるジムが今打撃を受けているという情勢があります。
私がいろいろな方々と話をしますと、体育の実技の先生方が全国各地におられるわけですが、その体育の教員が今回とても戸惑ったのが、実技をZoomで教えるということであるわけです。けれども、慣れてきますと、今まで集団でやっていたときは、「さあ、やって」「はい、できました」とアバウトに集団に指導していた体育の実技の指導が、Zoomにそれぞれが映ることによって、「その手のあり方が違う」とか、「おなかで上げて」とか、指導がより個別の1対1指導、集団の授業ではあるのですけれども個別の指導が入っているというのが大学の体育授業でも起こっているわけでありまして、これをぜひスポーツジムでも取り入れてほしい。わざわざジムに行けない方がネットでスポーツ指導を受けることによって、よりシェイプアップしていただく、これは本当に今起こっているわけで、将来起こると言っていたことが今起こっている。こういった“するスポーツ”に対する影響、そしてその指導内容への影響というものも注目したいと思います。
尾山 マッキンゼーの発表では、「People do not feel comfortable going back to gym」というタイトルで、「Decline of health club revenue in April and May」(1年前に比べると4月と5月は70%売上がダウン)とあります。ただ「50%以上はいつかジムに戻りたい」というUSAのアンケートデータもあります。「いつ戻るかわからない」というのが41%、「6カ月後に戻りたい」というのはわずか21%です。さらに、「48%の人がオンラインパーソナルトレーニング・フィットネスをしたい」というデータもあります。ジムに戻らない可能性があったとしても、人々は運動をしたいのです。つまり、インターネットやデジタルを活用するほかはないということです。
北村 私は順天堂に所属しておりまして、やはり医学の力は信じたいと思います。いずれワクチンなどもきちんと開発されて、「これこれこういう状況であるならば大丈夫だ」という指針も医学的に明らかになってくるだろうと思っています。そうすると感染者もあまり多くなく、プレーヤーもそれほど激しく接触しないような、例えば野球のようなゲームであれば、それなりに再スタートが切れるのではないかと思っております。
まだ柔道みたいなものも、医学的にこれこれこういう条件をきちんとクリアしていれば、大会に出ていいという指針がきちんとつくられていくと思っていますので、そういう意味でのアフターコロナはあるのではないかと考えています。
これからの学会のあり方
平田 withコロナという文脈の中でもう一つ申し上げたいことは、女性の活躍、そしてスポーツにおける女性の地位向上というものが期待されるという点を申し上げておきたいと思います。
今回のテレワーク等々は、基本的に女性は大歓迎をしていたようです。女性の活躍、そして女性がより働きやすい社会というものを絵空事のようにずっとしゃべってこられたのが男性社会だったわけですけれども、今回コロナ禍が起こりまして、テレワークで不要な会議が浮き彫りになった、あるいは何となく働いている格好していたおじさんというものがZoomで会議するようになると要らなくなったとか、こういったことがリアルになってきました。こういうことによって子育て世代のみならず、女性が活躍しやすい時代が少し近づいてきているのではないか。スポーツ界における女性のリーダー、またはスポーツ産業学会における女性のリーダーがとても期待されるわけですけれども、こういったところに少し前倒しした現実というものを感じています。
北村 そういう女性のリーダーとか、スポーツ産業における女性の意識の変化みたいなものをテーマにして、学会でプロジェクトチームをつくって、調査をしてエビデンスを出していくというようなことを、ぜひ学会として推進していきたいと思っております。
結論的には、今、平田会長が問題提起されたわけですが、そのような平田会長の問題提起を問題提起だけで終わらせるのではなくて、それをみんなで考えていこうという動きがでてくる学会にしたいと思います。学会がいわばサロンのような機能をもつものとし、そこでいろいろな話をして、その中で「これは大変重要だ」と思ったら、それをテーマにしてプロジェクトチームをつくり、その結果を社会に発信していく。そういう広場を提供したいです。
つまり、プロジェクトベースの学会というものを指向したいと考えています。私は、それをネットワーク型の組織によるプロジェクトモデルと言いたいのですが、そのようなネットワークの広場としてのスポーツ産業学会という学会のあり方というものを、皆さんで考えていっていただければと思っております。
尾山 賛成です。産業界の立場から経済原則の話を申し上げます。7月の甲子園球場の入場者数の上限は5,000人でした。ただ、約5万人のスタジアムに5,000人しか入らないということは10%の入場料収入にしかなりません。5,000人でペイしようとしたら入場料を10倍に上げなければイコールにならないのです。
次に、物販です。甲子園球場に来た方のうちの何十%かが“しま模様”のグッズを買っていくとして、5万人から5,000人に減少したうちの何十%となればもちろん全体の数量は落ちます。これをコロナ前の損益計算書にしようとしたら、入場料を10倍にして物販をどこで付加するかという検討が必要になってくるのです。決して慈善事業ではないので、これが産業として成り立たせていかなければ事業存続が難しく、失業者が出てしまう。このような経済原則がどうなっていくのかというのが課題だと思っています。
もしくは、トップラインが20%〜30%の損益計算書(PL)で経営をするということになれば、その他の販売管理費、諸経費等すべて20〜30%をカットしなければならないという世界になってしまうと思うのです。
また、私もドイツにいた時期があるので思い出しましたが、ドイツはペストや産業革命によってコアのアルトシュタットの町の外にシュタットヴァルト(都市森)を作り、その外に新規住宅地を作ったという歴史があります。
この話を思い出して次に思い浮かべたのはサテライトオフィスです。私自身も在宅勤務で出社率を抑えて勤務を行いましたが、何人かで会わなければいけない仕事は必ずあるわけで、今後は当社のレベルでもいくつか持っていたほうがいいのかなと、レンタルオフィスと契約しようかということも考えました。
関西を例として挙げますと、空港が3つあり、新幹線も通っています。また、私鉄やJR、地下鉄もあり、非常にロケーションが良いです。過去のヨーロッパのまちづくりを考えますと、サテライトオフィスの設置や、教育環境・住宅環境の良いところ、物価が安いところなど、何年かかけて人々が都心から動いていくのではないかと思うのです。
これは私の意見ですが、産官学の広い知見をこの学会として網羅するには、今回のようなオンラインを活用した方式でしかできないと思うのです。「何月何日、この学校へ集合」というのはもう合わないと思います。
平田 きょうは、この30周年を振り返るということで、こういう貴重な機会をいただきましてありがとうございます。やはりこの30年間というものは、着実にこの学会が発展したということを痛感しましたし、今の御意見を踏まえますと、やることがたくさんあるわけですけれども、その方向性、筋道が幾つか見えてきたということが、きょうの座談会で学んだことであります。
これから我々より大幅に若い後輩たちが次の30年をつくっていくわけでありますけれども、新しい働き方、新しい手段、新しい付き合い方で大きくこのスポーツ産業学会を発展させていただきたいと思います。
▶本稿は、2020年7月11日(土)に開催された、第29回日本スポーツ産業学会大会の同名シンポジウムの内容をまとめたものである。