大学スポーツ再考─その1
大学スポーツ再考─その1
上田滋夢│追手門学院大学教授
1.大学スポーツを取り巻く環境
これまで大学スポーツを取り巻く環境は、ある意味パンドラの箱であった。ステークホルダーが多岐に渡り、その既得権益の整理に時間が見込まれる問題であった。別の言葉にすると文部科学省、大学、スポーツ競技団体にとって「やっかいな問題」でもあった。常に懸案事項として議論の対象となりながらも、「学生の自治活動」という鎧を装っていた。
2016年4月に文部科学大臣を座長とする「大学スポーツの振興に関する会議」がスタートし、その中のタスクフォースにて日本版NCAAの検討が始まった。2017年9月には「日本版NCAA創設に向けた学産官連絡協議会」が発足し、2018年度中に日本版NCAAの創設を宣言した。同年10月22日に行われた第2回日本版NCAA設立準備委員会の冒頭にて、新法人名を一般社団法人大学スポーツ協会(通称UNIVAS)に決定したことが鈴木スポーツ庁長官より発表された。
そこで本稿では、これらの背景と現状を踏まえながら、その部会の末端を担う者として、今後の大学スポーツに関わる議論を提供していきたい。
わが国のアマチュアスポーツ組織の位置付けは複雑である。帰属性(地域等の場所)と資格(プロやアマチュアなど)が交錯する。帰属性において、各中央競技団体の傘下には、「たて」構造が存在する。資格においては、大学スポーツに関係する団体だけでもプロスポーツ、一般アマチュア、大学が位置した「よこ」構造である(図1)。しかしながら大学連盟傘下には、各地域の大学連盟があるだけでなく、野球等では各リーグが独立して存在するものも見られる。
この構造は、大学生年代の「誰もがスポーツ競技に参加」できるシステムとして、多元的な公平性が保たれている。アメリカの選別されたアスリートによる、一元化された「大学スポーツ競技」の構造とは全く異なる発想によるものである。
この「たて」と「よこ」の構造は、UNIVASの設立にて一件落着する訳ではない。「たて」の構造において、現代のスポーツ競技の殆どは、国際的競技統括団体の傘下に位置づけられている。この構造を無視して競技者や指導者の資格等をドメスティックに設定してしまうと、制度は整ったものの、国際的な舞台での競技者や指導者の活躍が阻害される要因ともなる。例えばフットボール(日本語ではサッカー)では、FIFA(国際フットボール連盟)の構成団体としてAFC(アジアフットボール連盟)があり、その傘下としてJFA(日本サッカー協会)があり、その傘下に全日本大学サッカー連盟という構造である。 現実にNCAAではFIFAルールと大きく異なり、競技者や指導者の発展の阻害要因となっている様相が見られる。これ以外の競技でも、NCAAの思想や制度の素晴らしさがマイナス因子となり、ドメスティックで閉じられた環境となっている。
「よこ」の構造においては、プロスポーツ団体、地域競技団体、大学連盟が並列でありながら、各大学の競技者登録は地域競技団体が窓口となっている。これは登録費の回収という点では理解できるものの、今後のUNIVASへの一元化された登録・管理・運営を鑑みると、各競技団体との同時性を巡った調整に時間がかかろう。また、大学連盟所属から地域団体やプロスポーツ団体に移籍する場合、再び大学に戻って来る場合、これらの並行移動は「たて」の構造の影響を受ける。さらに海外移籍の場合は、NCAAの様に、UNIVASの規約が国際規約に適合しなくなる可能性も考えられる。
この様に、大学スポーツの環境整備は、わが国におけるスポーツの国際的競争力向上の観点からも、総体的で戦略的制度設計の必要性に迫れていると言えよう。
2.大学スポーツは商業化との相克か?
NCAAに対するナイト委員会(Night Commission on Intercollegiate Athletics)による大学スポーツの在り方についての提言(1991,2001,2010)は、「大学スポーツの根幹」を問い、学術中心主義と商業中心主義を対立軸にした論点であった。わが国では、2016年の「大学スポーツ振興に関する検討会議」にて、スポーツ法学者の川井が、NCAAの訴訟事例を中心に、NCAAの過度な商業主義から「大学スポーツの根幹」を問い、大学スポーツの安易な商業化に警鐘を鳴らしている。そこで2章では「大学スポーツ」における学術中心主義と商業中心主義との二項対立の視点を超えて、戦略論から議論を提供したい。
強豪校はなぜ強豪校なのか?
NCAAは、前述のナイト委員会だけでなく、特に強豪校に偏った方策であることが再三指摘されている。実際に1997年以降、この強豪校の中でもBig5カンファレンスの64校が、NCAA理事会での意志決定権の70%を掌握している(ウォン,川井,2012:57)。これらは、NCAAの創成期に加盟した伝統的な大学で、学術的評価の高い大学が多く見られる。先行者利益もあるが、これらの大学の学術的評価や所属カンファレンスが低迷していたならば、現在のような意志決定権を持てていただろうか。カンファレンス内では、各大学が競争をしながらカンファレンス全体を強豪に押し上げる競争戦略であることも見逃せない。
さて「強豪校はなぜ強豪校なのか?」。チーム構築には財政、環境、スタッフ、そして競技者が必要な因子である。公式化すると、チーム=時間x財政x(環境*スタッフ*競技者)となる。しかし 「(環境*スタッフ*競技者)」の部分において、「セレクション」と「チームサイクル」の熟知という特殊演算が必要である。財政が豊かでも社会的評価が高くなければ、強豪校と認知されない。つまり公式と社会的評価向上のための戦略を有した大学のみが強豪校となるのである。
これらを表したのが図2である。「競争に勝てる学生の確保」により、「競争に勝つ学生の輩出」が可能となり、大学、カンファレンス、そしてNCAA自体が「ブランド力の構築」行うことが可能となり、更に「競争に勝てる学生の確保」が可能となる。つまり上昇のスパイラルを形成することが可能となる。「大学スポーツ」を資源と捉 えると、高質なゲームが創出され、エンターテイメントとして商品価値が発生する。NCAAは「大学スポーツ」を発展させることが目的であるため、資源の維持、発展する為の資金源として資源を商品化する発想となるのは、資本主義社会として当然のこととも言える。
視点を移すと、高等教育機関の第一義は「学術発展への寄与」である。そのため、アメリカの大学においては、多数の学術優秀な学生に奨学金が与えられる。再び、図2を見て頂きたい。「競争」は「学術発展の競争」でもある。この様に、学術優秀者を再生産させているからこそ、企業や個人からの多額な資金を獲得することが可能となり、世界から「競争に勝てる学術優秀な学生」を確保し、「学術的競争に勝つ学生」を輩出し、「世界的学術ブランド」の構築を可能としている。NCAAと異なり、奨学金の限度額や人数制限に大学横断的な規制はない。戦略的に大学院、研究者へと連動させた再生産装置を創り上げている。すなわち、NCAAの戦略は、NCAAの戦略的思想である前に、アメリカの高等教育の戦略的思想を、そのままスポーツに援用したとも言える。大学の資源が学術優秀者かアスリートかの違いだけで、戦略の視点からは全く同一の再生産装置である。