サッカー監督という仕事──① ベトナム代表監督を経験して

サッカー監督という仕事──① ベトナム代表監督を経験して
三浦俊也│サッカー解説者

▶みうら・としや 1963年生。サッカー指導者を目指して1991年にドイツに留学。コーチ理論を学ぶとともにドイツA級ライセンスを取得。帰国後、日本のS級ライセンスを取得して1997年から仙台・水戸・大宮・札幌・神戸・甲府で監督を歴任。トップリーグでの選手経験のない監督として注目を集める。早稲田大学大学院を経て、2014年にベトナム代表監督に就任。2016年に帰国し、テレビ解説などに従事。

契約について

2014 年にベトナム代表からオファーが来ました。サラリーの話だけは事前に合意したのですが、細かいことはベトナムにいってからの契約交渉となりました。日本の契約書は、サラリーとか、勝利給とか、守秘義務や肖像権のことがあって、最後に、サッカーに専念して下さいとか、問題が起こった場合にお互いに誠意を持って話し合いをする、という記載があり、全体で4頁程度です。それに比べて、ベトナムの契約書は30頁くらいありました。ベトナム語と英語で表記されていて、言葉のニュアンスが違った場合には英語を優先するということも記されてました。お互いに代理人も同席の上で条文を一つ一つ読み上げて確認し、12時間かかけて最終的な合意に至りました。
興味深かったのが、「八百長を知ってて、関与した場合、ベトナムサッカー協会に連絡します」という項目でした。また、日本の勝利給に相当する箇所にボーナスと書かれているだけで、その額が明確に決まっていないことにも驚きました。しつこく食い下がったのですが、事前に書くと少ない金額しか書けないから理解してくれと言われました。実際のところ、試合に勝ってお金持ちの気分が良いと「100万出すよ、1000万出すよ」となるのです。相手の強さによっても金額が変わるのです。

ベトナムでのサッカー人気

ベトナムで驚いたのは、サッカー人気の凄さです。国技が「サッカー」で、本当に「サッカー」しかないのです。連日連夜、テレビ等でサッカーを報道しますので、ベトナムではみんな私のことを知っています。余談ですが、私には運転手がついていたのですが、監督として視察に行くとき5回くらい警察に捕まっているのです。恐らくスピード違反だと思うのですが、その度に運転手は窓を開けて私の顔を警察官に見せて、「この人乗っているからいいだろう」と言うと警察官は見逃すのです。
マレーシアで行われたスズキカップの準決勝一回戦は8万人の満員でした。スタジアムに入れず、外にもあふれていました。それまでJリーグの浦和戦で5万人は経験しましたが8万人は初めてで、物凄い数のレーザービームの赤い点が飛び交う中で試合しました。結果はベトナムが勝ったのですが、試合の終盤、会場にいた1200人のベトナムサポーターに向けて爆竹を打ち始めて、怪我人がでて、機動隊が出てという状況でした。試合終了後には、逃げるようにロッカールームに帰った記憶があります。

八百長について

私は2014年5月にベトナムに渡ったのですが、その直前に一人の選手が八百長で捕まったそうです。在任中の9月にも14チームで行うベトナムのトップリーグで八百長がありました。選手が試合を操作するのです。ベトナムサッカー協会もピリピリしていましたが、代表にも数年前の大きな大会で八百長があったとのこと。大きな大会では賭け金が大きくなるので、警察官がチームに一人ずっと帯同して、選手を監視しています。後から聞いた話では、警察官が私服でホテルの前後にも警備していたらしいです。私の監督在任中には代表試合での八百長問題は起こりませんでしたが、スターティングメンバーを試合直前まで発表しなかったことが良かったのかもしれません。八百長には、勝った、負けた、引き分けたという試合結果だけではなくて、全部で43種類あると言われています。例えば、合計の得点はいくつでとか、最初はどちらが点を取るとか、最初のコーナーキックは誰が蹴るとか、試合結果の操作は難しくても、そのくらいだった容易にできると思えるようなことまで賭けの対象になっているようで、見つけるのもとても難しいようです。私には八百長の依頼は来ませんでした。以前、日本の審判が買収されそうになったときに、その方が当たり前に報告して、マフィアは捕まりました。そのことがあって、「日本人は空気読まない」となって話は来ないようです。

ベトナム人選手への思い

最初、タイでは選手が時間通りに来ないといったことを伝え聞いていましたので、不安に思っていたのですが、ベトナム人選手は、遅れることもありませんし、トレーニング(練習)でも私の言ったことをよくやってくれました。その背景の一つとして、日本人が凄くリスペクトされているということが挙げられます。これは私の力でもなんでもなく、日本の色々な会社が進出していますし、いい製品を作り、雇用を生み出し、道路をつくり、ODAも日本が一番出している。そういったことで日本が感謝されているらしいです。これは、日本の素晴らしさ、先人たちの功績だと感じました。
また、「外国人の監督だとモチベーションが上がるけど、ベトナム人の監督ではモチベーションが上がらない」とほとんどの選手が言っていたのも印象的でした。ベトナムに限らずアセアン地域では、ポジションが上の人にお金を払うという風習があって、ベトナムリーグでも多くのチーム、ベトナム人監督には選手から「よろしくお願いします」の気持ちを込めてお金を積むらしいのです。外国人(日本人)監督にはそのような慣習がないので、「フェア」と感じる。選手たちが「モチベーションが上がる」と言っていたのは、こういうことだったのかと後になってわかりました。選手のメンタリティーにも気を遣いました。ベトナム人は、日本人以上にぶつかり合いを嫌います。お互い面と向かってケンカしない。みんなと一緒に行動し、食事をし、寝てと集団行動が得意なので、そこを上手く生かそうかなと努力をしました。
そういったことを経ながら、ワールドカップ予選、オリンピック予選、スズキカップ、アセアンのオリンピックといった大会を一通り体験しました。オリンピック予選では、日本と同組でしたが予選を突破し、最終予選までいきました。最終予選までいったのは史上初のことでした。

監督としての成果

実は就任当初、メディアは私に対して冷ややかだったのです。最初の質問が「童顔に見えるんですけど」というもので、「そんな( 風貌)で舐められないのですか」という意味だったそうです。初めての大会が、韓国・インチョンでのアジア大会で相手がイランでした。イランはアジアの大会ではベスト4に入るような強豪国でしたので、負けて当たり前で、ボロ負けだけは避けたいな、というのが本音だったのですが、4 -1で勝ったのです。私からするとイランの選手がダメだったのですが、勝ったことでメディアや世間の評価が手のひら返しになったのです。空港でも出迎えがきて、みんな「ミウラ、ミウラ」となりました。
ベトナムサッカー協会が代表監督に期待する目標は、アセアン大会での勝利なのです。二年に一度アセアンで一番を決める大会(スズキカップ)と、アセアン版オリンピッ ク(SEA GAMES)の勝利なんです。私からすると、遠い目標とはいえオリンピックやワールドカップを目指したいところですが、現時点ではアセアンの国にはワールドカップやオリンピックの出場の可能性がほとんどなく、国民は負ける試合を見たがらない。
隣国のインドネシア、タイ、シンガポールなどとやるため、ベトナムにも優勝の可能性があって熱狂します。もう一つ、アセアンでのオリンピックのような大会(Sea Games)が隔年であります。この大会のサッカー競技は、オリンピックと同じくU-23で行います。毎年交互に行われる二つの大きな大会でサッカーに熱狂して、サッカーが勝てば成功、負ければ失敗といったスタンスになります。私は、ファンのそのようなメンタリティーを変えたいなと思っていたのですが、やはり負けそうな試合や中東諸国との試合は食いつきが悪く、興味を示さない印象があります。二年の契約があったのですが、契約満了の三か月前にクビを切られました。表向きには、「オリンピック最終予選で全敗した」という結果(成績不振)と言われてますが、退任後の新聞では、「これまで最高の成績を残した監督だ」と書かれました。実際、勝率は一番高かったそうです。ただ、選手とはお互いに信頼関係ができていて、私がクビになった時もほとんどの選手がFacebookなどで、「本当に感謝している」といった発信をしていたそうで、とても誇りに感じています。(続く)

▶本稿は、早稲田大学で全学部生を対象として開講されている
「トップスポーツビジネスの最前線」の授業で2016年12月18日に行われた講演内容をまとめたものである。

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