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紅葉が見頃の京都・南禅寺の境内に、ひときわ存在感を放つレンガ造りのアーチ橋がある。琵琶湖・大津の取水口から京都市内に引かれた用水路・琵琶湖疎水の水道橋だ。琵琶湖疎水は、幕末の動乱と東京遷都による人口減少で寂れた京都の町を復興すべく、第3代京都府知事の北垣国道が1890年に完成させた日本有数の用水である。全てを日本人の手によって行った日本最初の大土木工事で、当時の京都府の年間予算の約2倍の費用を費やし、完成までに5年を要した一大事業であった。産業用の水力発電や飲用水として市民の生活向上に大きく役立った琵琶湖疎水だが、図らずも京都に水泳文化を作り出すことに大きく寄与したことはあまり知られていない。
清らかな水が流れる完成したばかりの疎水に目をつけたのは、武道の振興と教育を目的とした組織である大日本武徳会だ。
海が遠く水に親しむことが少ない京都の子女に水泳を教える場を作ることは急務であると考えた彼らは、1896年、現在の京阪本線神宮丸太町近くにある疎水の夷川舟溜をプールとして活用し、日本泳法の指導を開始した。翌年には熊本から小堀流踏水術の師範を招聘し、生徒は200名にも上ったという。これが、京都最古のスイミングクラブである京都踏水会の前身である。京都踏水会は水泳の五輪種目のうちオープンウォーターと飛び込み競技以外は全て指導しており、現在7大会連続で五輪選手を輩出している名門クラブだ。しかしながら指導の基礎は近代泳法ではなく、あくまで舟溜での開校当時から続けている日本泳法なのだという。ここで水泳を習う子供たちは進級のためには必ず小堀流踏水術を修得しなければならない。日本泳法の特徴である立ち泳ぎが活かされる水球やシンクロナイズドスイミングに特に秀いでた選手が多いのは、その成果だろう。
100年以上の歳月の中で日本の水泳をリードする存在となった京都踏水会。その陰の立役者が、琵琶湖疎水だ。踏水会の水泳場以外にも疎水の水を利用したプールは当時いくつも作られ、京都における水泳振興に役立ったという。時代は下り疎水のプール利用は終了したが、豊かな琵琶湖からの水の流れが、これからも京都水泳界の発展を見守り続けていくはずだ。
文・写真│伊勢采萌子