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“日本サッカー協会×日本サッカー名蹴会”のトップが次の100年に向けて語る!”過去への感謝、未来への決意”とは?


“日本サッカー協会×日本サッカー名蹴会”のトップが次の100年に向けて語る!”過去への感謝、未来への決意”とは?
伝説の指導者や日本代表への想い「過去への感謝、未来への決意」について特別対談を実施

一般社団法人日本サッカー名蹴会(所在地:東京都新宿区、 会長:金田喜稔、 以下、 名蹴会)は、 金田喜稔会長と公益財団法人日本サッカー協会(以下、 JFA)の田嶋幸三会長による特別対談記事を2021年10月18日に公開しました。 2021年9月10日、 1921年9月10日に「大日本蹴球協会」として創立されたJFAが、 ちょうど100年という節目を迎えました。 約半世紀にわたりサッカー界を牽引している2人が、 自身の選手時代の経験や「ドーハの悲劇」などを振り返るとともに、 日本が真のサッカー大国となるための課題など「次の100年」に向けた展望について語り尽くしました。

▼日本サッカー協会×日本サッカー名蹴会|特別対談特集
https://www.meishukai.or.jp/blog/20211018110000/

■金田会長の心に刺さった、 急成長中のMF・田中碧が放ったコメントとは
名蹴会は、 日本サッカー界において頂点を極めたトッププレイヤーたちが中心となり、 2010年に誕生。 厳しい国際試合やプロ生活を通じて培った技術や精神力、 豊富な経験を次世代に伝えることで、 国内のサッカー界をさらに発展させていきたいと、 全国各地でサッカークリニックなどの普及活動を展開しています。 会長を務めるのは、 「天才ドリブラー」として活躍し、 いまだ破られていない日本代表最年少得点記録(19歳119日)を持ったレジェンド・金田喜稔。 サッカーに情熱を注ぐ同志と積極的に対談をおこない、 毎回熱い議論を交わしています。 今回の対談相手は、 JFAの田嶋幸三会長。 日本のサッカー界に生涯を捧げてきた“同い年”の2人が、 本音を語り合いました。

まずトピックに上がったのは、 この夏の東京オリンピックの日本代表チーム。 コロナ禍を受けた「無観客試合」で、 しかも「中2日で6試合」という短期決戦を懸命に戦った選手や監督への感謝の気持ちを示しました。 代表チームの中で金田会長が強く印象に残ったというのが、 田中碧選手(デュッセルドルフ)が発した「2対2や3対3の状態でも1対1をし続けている自分たちは、 サッカーを知らなすぎる」という言葉。 上がり続ける世界のレベルとの差を、 選手たちが肌身で感じていることがよく伝わるコメントと言えるでしょう。

■1993年の「ドーハの悲劇」が、 日本を強くしてくれた
また、 JFAの前身が発足した1921年から2021年に至るまでの出来事や経緯にも言及。 田嶋会長は、 戦争や度重なる大震災など、 幾多の苦難を乗り越えてきた先輩たちの努力に心から感謝したいと語っています。 ちなみに両会長とも、 選手として活躍したのは、 まだプロリーグが国内になかった時代。 それだけに、 現在のJリーグの隆盛ぶりはもちろん、 日本選手が続々と海外チームに移籍し、 ワールドカップ(W杯)にも出場できるようになるとは想像すらしていなかったと感慨深げに語ります。

W杯に関し、 2人が特に記憶に残っている出来事の1つが、 いわゆる「ドーハの悲劇」。 1993年、 アジア地区最終予選の日本代表最終戦において、 終了間際のロスタイムにイラクに同点弾を決められ、 日本の予選敗退が決まってしまいました。 国中がショックに打ちひしがれている状況を見て、 2人は、 日本人のサッカーへの注目度の上昇ぶりを実感。 「ドーハの悲劇」があったからこそ、 その後の日本サッカーが躍進を遂げることができたのではないかという思いで一致しました。

■1968年メキシコ五輪で日本を銅メダルへ導いた「日本サッカーの父」クラマー

金田会長曰く、 ブラジルやスペインをはじめとするサッカー大国に共通する特徴は、 サッカー人口と強さのピラミッドが三角形ではなく、 “垂直に近い台形”であること。 つまり、 プロを志す子どもや現役プロ選手だけでなく、 中高年などアマチュアも長くプレーを続けているのだそうです。 実は、 スペインが強豪国の仲間入りをするまでに要した年数は、 およそ150年。 日本も、 すそ野をさらに拡大し、 150年ではなく120年で世界に冠たる大国となれるよう、 一致団結し性根を入れ取り組んでいきたい、 と田嶋会長は決意をのぞかせました。

サッカーにおける指導者の役割についても議論は白熱。 「日本サッカーの父」と称されるドイツ人指導者デットマール・クラマーの名前が登場しました。 クラマーは、 1968年のメキシコオリンピックで日本が銅メダル獲得という快挙を達成させる原動力となった立役者。 「止める・蹴る」という基本の徹底が何より大事なのだと気づかされたと田嶋会長は振り返ります。

現在、 日本代表は2022年カタールW杯への出場権をかけ、 アジア最終予選というタフなシリーズに挑んでいます。 今回の対談では、 およそ50年もの間、 サッカー界の第一線に身を置く両会長ならではの体験談や鋭い知見などが満載。 オールドファンにとっては懐かしく、 若い世代にとっては新鮮な世界に触れることができる貴重な対談をお届けします。

< 田嶋 幸三(たしま こうぞう)氏|プロフィール>
公益財団法人日本サッカー協会(JFA)会長。
1957年、 熊本県天草郡苓北町出身。
小学生の時に東京オリンピックを観戦してサッカーに興味を持ち、 中学校でサッカー部を創部。 埼玉県立浦和南高校3年時に、 全国サッカー選手権大会制覇。 教員を目指し入学した筑波大学では、 3年時に日本代表に選出されFWとして活躍。 卒業後、 古河電気工業に入社し、 日本サッカーリーグ(JSL)でプレー。 本格的にコーチ学を学ぶために1983年、 ケルンスポーツ大学に留学し、 西ドイツのサッカー指導者ライセンスを取得。 1996年にはJFAのS級コーチライセンスを取得。 2001年、 U-17日本代表の監督に就任し、 FIFA U-17世界選手権大会(現・FIFA U-17ワールドカップ)に導く。 日本サッカー協会の理事、 専務理事、 副会長を経て2016年に第14代会長に就任。 国際サッカー連盟カウンシルメンバー、 アジアサッカー連盟技術委員会委員長も務める。

< 金田 喜稔(かねだ のぶとし)|プロフィール>
中央大学2年生で日本代表に選出され、 1977年6月に行われた日韓戦での代表初ゴールは、 日本代表歴代最年少ゴール(19歳119日)として今も刻まれている。 卒業後、 日産自動車株式会社サッカー部(現・横浜F・マリノス)でもチームの中心選手として活躍し、 国内タイトル7冠獲得に貢献。 国際Aマッチ58試合出場。 変幻自在のドリブルを得意とし、 「キンタダンス」と呼ばれる独特のフェイントで世界の選手を驚愕させた。 また、 日本代表ではペレ、 ベッケンバウアー、 マラドーナ、 ケンぺス、 クライフなど世界のスタープレイヤーと対戦した経歴をもつ。 現役引退後は、 サッカー教室の開催、 サッカー日本代表戦の解説者をつとめるなど、 サッカーの指導・普及活動にあたる。 2010年 日本サッカー名蹴会 会長に就任。 2018年 広島県安芸郡府 中町PR大使に就任。 2021年9月 日本サッカー協会 初代 シニアアンバサダーに就任。

 

【一般社団法人日本サッカー名蹴会について】
所在地:〒160-0023 東京都新宿区西新宿3-2-9新宿ワシントンビル2階
代表者:会長 金田 喜稔
設立:2010年9月
電話番号:03-5324-2666
URL: https://www.meishukai.or.jp/
事業内容:
・サッカーの普及・振興活動
・サッカークリニック、 サッカー大会の開催・運営
・アスリートのセカンドキャリアサポート

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